« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月

2007.5.31 清真大寺、大雁寺(第37日)

 今日はイスラム寺院である清真寺(チンジェンスー、QingzhenSi)を訪れた。境内は完全に壁で囲まれ、周囲の町の喧騒と切り離された静謐な空間を確保している。そこにはドームや尖塔はなく、一見してイスラム寺院とはわからない。完全に中国の伝統建築様式を用いてつくられている。

 入口を入るとまず朱色の木牌楼と照壁(しょうへき、Zhaobi)が迎えてくれる。センスの良い照壁のレリーフがとても美しい。照壁は風や視線よけの機能をもつ風水思想の影響を受けたとも言われる中国の特徴的な建築形式の一つ。北京に多く残る四合院(しごういん)の入口にも必ずといっていい程照壁がある。影壁(Yingbi)とも呼ばれる。厳密には、照壁と影壁は違いがあるのかもしれないがわからない。

Qingzhensi07 Qingzhensi03 Qingzhensi04  50m×250mという細長い敷地の中に建築郡をシンメトリーに配列している。二道門、三道門、四道門といくつもの門を潜って奥へ奥へと進んでいくのだが、先に見える大きな瓦屋根の鮮やかな青が目に焼きつく。青い屋根の建物はメインの礼拝殿。中を覗くと彫像も何もないガランとした大空間。ここがモスクだと改めて気づく。

 境内には小空間があちこちにあって心地良い。規模も大き過ぎず、地元に根ざした寺院であることが感じられる。真ん中より境内の両端を歩く方が面白い。

 今日はお寺をもう一つ、慈恩寺(じおんじ、CienCi)へ行った。有名な大雁塔(だいがんとう、DayanTa)を見るためだ。大雁塔は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)、三蔵法師がインドから持ち帰った経典や仏舎利等を保管するためにつくられたもの。高さ64mの四角錐楼閣式のレンガ造りの塔。玄奘三蔵自ら設計して施工指導にあたったと言われている。古都西安のシンボルにもなっている。安定した重厚なデザインが美しい。

Dayanta01 Dayanta02 Dayanta03  中は螺旋階段で上まで登ることができる。各階の開口部から眺める四方向の景色は悪くない。頂部には14の文字が円く並んでいる。「西天拝佛前人賛唐僧取経還須遊」この14文字の読み方は幾通りもあるという。

西天拝佛前人賛唐僧取経還須遊

天拝佛前人賛唐僧取経還須遊西

拝佛前人賛唐僧取経還須遊西天

佛前人賛唐僧取経還須遊西天拝

前人賛唐僧取経還須遊西天拝佛

人賛唐僧取経還須遊西天拝佛前

賛唐僧取経還須遊西天拝佛前人

唐僧取経還須遊西天拝佛前人賛

僧取経還須遊西天拝佛前人賛唐

取経還須遊西天拝佛前人賛唐僧

経還須遊西天拝佛前人賛唐僧取

還須遊西天拝佛前人賛唐僧取経

須遊西天拝佛前人賛唐僧取経還

遊西天拝佛前人賛唐僧取経還須

 14通り全て意味が通るのか定かでないが、漢字文化のとても粋なお遊び。

バス                     1×2=2

清真寺                 5×2=

昼食                         17

慈恩寺                 25×2=

大雁塔                       20

買い物                        22

夕食                        20

コーヒー                       30

宿泊費/日                    343

計                          554RMB(=8310円)

2007.5.30 陝西歴史博物館(第36日)

 西安(せいあん、Xian)は、京都と並んで世界に名高い古都。ただし、歴史の刻みという点では京都を遥かに凌いでいる。794年に桓武天皇が遷都したことに始まる京都に比べて、西安はその千数百年前の紀元前11世紀に西周が都と定めて以来秦、漢、隋、唐など13の王朝が都を置いた。また、シルクロードの基点としても栄え、古くは長安と呼ばれ、唐代には人口100万を越える世界トップの国際都市だった。かつてここでは秦の始皇帝、漢の武帝、司馬遷、則天武后、楊貴妃、三蔵法師・・・数え切れない程の人物が活躍していた。そんなことを思うとちょっと興奮してくる。

 今日は陝西(せんせい)歴史博物館まで行ってみることにした。博物館は城壁の外側、街の南に位置する。いつものように地図でバスのルートを探しながら出発。バス亭までてくてく歩く。街中には西洋人らしきひとが多い、やはり観光都市だ。バスに乗ると、必死に地図と照らし合わせながら外の景色を眺める。きれいな中心街からだんだん生活感のある街へと景色が変化する。路線バスなので当然だが、かなりのろのろ運転で、目的地まで予想以上に時間がかかった。急いでいるわけではないのでのんびりバスからの景色を楽しんだ。バスに乗ってただぼんやり街を眺めるのは嫌いではない。タクシーだと速すぎて街の様子を感じることが難しいが、路線バスだと実はちょうど良い。

 陝西歴史博物館はかなり大規模で貴重な文化財を多く収蔵する中国屈指の博物館。展示もまとまっていて分かり易かった。中国の歴史を概観できる。個人的にはどことなくユーモアのある金細工が興味深い。当時の作者は多少でもユーモアを込めて形態を創り出したのだろうか。もし、そうだとすると2000年以上も前の人たちになんとなく親近感をもつ。青銅器展示ではつい春秋時代の越王「勾践」(えつおう こうせん)の剣を探したのだが、やはりここにもなかった。さっさと展示を見終わった妻はミュージアムショップで物色している。実際、ここのショップは充実している。結局妻はパンダのTシャツを購入。悪くないデザインだったが、西安でなぜパンダ?

博物館を出ると、街の中心を目指して適当に歩くことにした。ちょっとしんどかったが、ホテルまで歩ききった。

バス                    4×2=8

博物館                 35×2=70

昼食                         30

Tシャツ                       60

買い物                           8

夕食                         8

宿泊費/日                    343

計                       527RMB(=7905円)

2007.5.29 秦始皇陵、兵馬俑博物館(第35日その2)

 始皇帝の墓である秦始皇陵(しんしこうりょう QinsgihuangLing)は一見単なる小山。とりあえず頂上まで登ってみる。ある中国人が指を指して「あそこに兵馬俑博物館が見える」と教えてくれた。なるほど遠くに体育館のような建物が見える。四周を見渡してしまうと、他にすることもなく降りてきた。ちょっと物足りない気がして、墳丘周囲を案内してくれるカートに乗ってみることにした。簡単な説明をしながらしばらく進むと途中でカートを降ろされた。前方に小屋のようなものがある。意味不明だが、中で一人一人占いをして何かを記した紙を渡される。そして、前へ進み、係りのひとにその紙を渡すと、「あなたにはこれ」・・・・、そういうことか、単にお払いと称して売りつけたいだけのようだ。もちろん「不要(ブーヤオ、いらない)」と答えて終わり。一緒に廻っていた台湾人観光客も「全く、すぐ何かを売りつけようとする!」とこぼしていた。もちろん彼らも購入せず。このカートツアーは完全に期待はずれ。

Qinshihuangling02_2  墳丘だけを見ると、堺市にある仁徳天皇陵と比べて小さい印象を持った。秦始皇陵の墳丘は東西345m、南北350m、高さ52mの四角錐。仁徳天皇陵は長さ486m、方形部の幅305m、円形部の直径245m、高さ35mの前方後円墳。実際は規模的にあまり変わらない。郊外の自然環境のなかに存在する秦始皇陵と普通の街中に唐突にある仁徳天皇陵、周辺環境によって印象が大きく異なる。人間の(僕の?)認識なんていい加減なものだ。ちなみにエジプト最大規模のクフ王ピラミッドは底辺230m、高さ146m(現在138m)。

 墳丘の規模は他の古墳と変わらないとしても秦始皇陵の場合は地下宮殿が存在する。史記の記載によると銅を敷き詰めた上に棺を納めた墓室があり、その中は宝物を散りばめた楼閣や宮殿があるという。更に川を表現して水銀を流したとされる。実際、調査により水銀の存在が確認されて史記の記載の信頼性が高まっている。また、盗掘を防ぐために自動発射の弓矢が仕掛けられているそうだ。まるで、インディー・ジージョーンズの世界だ。始皇帝のスケールの大きさとそのクリエイティビティには舌を巻く。

 さて、次はいよいよ20世紀最大の発見と言われる兵馬俑(へいばよう Binmayong)。兵士や軍馬を等身大で再現した素焼きの副葬品。墳丘の1.5km東にあり、死後の始皇帝を守っている。1974年に井戸を掘っていた農民が偶然見つけたというのはあまりにも有名な話。1,2,3号坑が博物館として公開されているが、現在も発掘作業が続けられている。写真でよく紹介されている兵馬俑がずらっと並んだ1号坑の光景、いつか見たいとあこがれ続けたその光景が今自分の目の前にひろがる。その感動をしばらくかみしめる。圧倒的だ。壮観な景色。

Bingmayong01_2 Bingmayong02_2 Bingmayong07_2 Bingmayong10_2  周囲をぐるっと一周できるようになっている。色々な角度からの眺めを楽しみながらゆっくりと歩く。兵士たちの横顔はなかなか男前。本当に一人一人の顔が違う。やはり実在の兵士をモデルに一つ一つ作ったのだろう。柵を越えてもう少し近づきたい衝動にかられる、・・・もちろんきちんとした日本人とし行動した・・・。発掘した状態のまま破片だらけのところや、それらの組み立て再現作業を行う一角が横に並ぶ。また、何体かはガラスケースに展示してあり、間近で見ることができる。細部の仕事の丁寧さは驚異的。片ひざをついた兵士に特に魅かれた。顔や胴体は言うに及ばず、靴の裏まで細かく表現されている。どこかに飾る芸術作品としてではなく、土の中に埋めてしまうものとしてこれだけのエネルギーをかけてつくられている。現代人の我々の価値観、感覚とは全く違う。

Bingmayong11_2 Bingmayong13_2 Bingmayong14_2 Bingmayong15_2  2号坑では全体が発掘されたバラバラの状態を展示。崩れ落ちた湾曲した幾筋もの梁の跡を見ることができる。つまり、兵馬俑はきちんとした構築物の中に納めた上に土を盛ったということ。3号坑では兵士と軍馬の隊列の様子がよく分かる。真上から見下ろせるようになっていて面白い。その他忠実に再現された銅馬車の1/2の模型を展示室で見ることができる。

 全体としてはやはり一号坑の迫力がいつまでも心に残る。お決まりの観光コースではあるが、ここは来る価値がある。いずれにしても始皇帝恐るべし。

バス                   16×2=32

タクシー                        4

華清池                 70×2=140

秦始皇陵                40×2=80

カート                    8×2=16

兵馬俑博物館            90×2=180

買い物                         32

夕食                         56

宿泊費/日                    343

計                       851RMB(=12765円)

2007.5.29 華清池(第35日)

 西安(せいあん Xian)といえば、何といっても兵馬俑(へいばよう Bingmayong)遺跡。本日の目的地は秦兵馬俑博物館。学生のときに東京の世田谷美術館で兵馬俑展を見て以来、いつか西安に行きたいと思い続けていた。15年来の夢がついに叶う。同じ方向なので兵馬俑の他に花清池(かせいち Huaqingchi)と秦始皇陵(しんしこうりょう QinsgihuangLing)も訪れることにした。

 花清池(かせいち Huaqingchi)は約3000年前の西周代からある温泉地で、唐の玄宗皇帝が747年に造営した離宮、華清宮(かせいきゅう HuaqingGong)が有名。ここで玄宗皇帝と楊貴妃(ようきひ YangGuiFei)の甘い生活が繰り広げられたという。現在の花清池は清代に再建されたものに基づいて整備修築されたものらしいが、敷地内環境はなかなか良い。1982年に御湯遺跡が発掘され、御湯遺跡博物館として整備されている。

Huaqingchi01 Huaqingchi02  博物館の中には皇帝の湯、貴妃の湯、重臣たちの湯などがあり、いずれも床を掘り下げてくぼみをつくった形式で石造り。楊貴妃の専用風呂とされる海棠(かいどう)の湯は意外にも小さくかわいらしい。もっと絢爛豪華なお風呂を想像していた。御湯のくぼみは小さいが、周囲が広い。寂しく落ち着かない気がするが、たぶんそれは庶民の感覚。実際は多勢の御付の者たちに背中を流してもらってにぎやかだったのかもしれない。

 館内には楊貴妃の生涯をあらわした絵物語が展示されている。楊貴妃は世界三大美女の一人、また中国四大美女の一人として知られる。玄宗皇帝の寵愛を一身に受け、当時楊国忠(ようこくちゅう)をはじめ楊一族が権勢をふるった。そのことが安史の乱を引き起こすことになったことから傾国の美女とも呼ばれる。反乱を鎮めるために結局、楊貴妃は死刑に処せられた。政治をおざなりにしたのは皇帝の問題で楊貴妃本人に非があるわけではないので、悲劇といえば悲劇だ。後、白居易(はくきょい)が玄宗皇帝と楊貴妃の物語を題材として「長恨歌(ちょうごんか)」という長編の漢詩を残している。

 また、ここ花清池は現代中国政治史の重大事件の一つ「西安事件」の舞台となったことでも有名。当時の蒋介石の執務室がそのまま残されている。西安事件及び張学良(ちょうがくりょう)の生涯についてもパネル展示で知ることができる。

 西安事件は1936年に国民党指導者の張学良が抗日のために共産党との内戦中止を求めて蒋介石(しょうかいせき)を監禁した事件。共産党の周恩来(しゅうおんらい)の調停で蒋介石は釈放されたが、その蒋介石は釈放されると直ちに張学良を捕らえて禁固刑に処した。国民党が台湾に逃れた際、張学良も連れて行かれ、その後も台湾で軟禁され、1989年まで50年間自由を奪われた。軟禁中にキリスト教に改宗している。釈放後しばらくしてハワイに渡り、2001年にホノルルで亡くなった。100歳の誕生日を迎えた直後という。2001年といえばついこの前ではないか。国民党と共産党との内戦なんて過去の歴史という認識だったが、現代までずっと尾を引いていた事実に愕然とする。国を想ってとった行動のために自由を奪われた半生を送るとは一体どういう心情だろうか。今まで張作霖(ちょうさくりん)の息子という程度の知識しか無かった張学良という人物の人生に思いをはせる。

 次の目的地へ向かうべく門を出ると、一人の西洋人青年が中国人に囲まれて困っている様子。バスを待っている彼をタクシーの運ちゃん達が勧誘しているようだ。彼がいくら「不要(ブーヤォ、いらない)」といっても、引き下がる中国人ではない。やがて、僕らのところにもタクシーの勧誘がやってきた。バスで行くつもりだったが、タクシー代が意外と安いので西洋人の彼を誘って3人一緒に一台のタクシーに乗り込んだ。群がる中国人にどうすることもできず疲れ果てていた彼にとって僕らの誘いが救いの船になった。彼は現在台湾に留学中のアメリカ人。中国語はできるのだが、話すのは得意でないと本人が言う。彼が勉強している中国書物を開いて僕らに見せてくれた。なんと先ほど触れた白居易の「長恨歌」。色んな人がいるものだ。

2007.5.28 西安へ(第34日)

 さて、次の目的地はいよいよあこがれの古都西安(せいあん Xian)。洛陽(らくよう Luoyang)からは今回も長距離バスで向かう。途中の景色はあまり記憶にないので、大したことなかったのだろう。バスは西安の鉄道駅前に着いた。人で溢れかえっている。荷物に気を配りながら、いつものように市内地図を手に入れる。駅の南側には堂々とした姿で城壁が連なる。鉄道駅は城壁のすぐ外側に位置し、城壁内側が町の中心だ。

 地図で確認しつつ、まずはホテルへ向かう。宿泊は、今回もいつものようにe-Longでネット予約してある。今回は、いつもよりちょっとだけホテルをグレードアップ。といっても一泊200元(三千円)が300元代(5千円)になった程度。一般の日本人観光客とは比較にならないくらい安いのではないだろうか。ただ、e-Long(c-tripと並んで中国最大手の航空券やホテル予約ネットワーク)で予約しているため、比較的良いホテルに安く宿泊することができる。ここ西安では街の中心南大街(NanDajie)沿いの王子国際酒店というりっぱなホテル。こんなホテルに安く泊まれてラッキーと思っていたら、問題が一つ。シングルに2人で泊まるという設定になっており、部屋がかなり狭い。さらに、朝食券も一人分のみ。まあ、この値段でこのホテルなら仕方がない。全体としては非常に満足。利便性と治安の問題から僕らは毎回なるべく街の中心に泊まるようにしている。

Xian01  チェックインを済ませると、ホテルの近くを少し散策。かなり大都会の印象をもった。中国の現代都市の象徴、スタバもある。街の中には鐘楼(しょうろう、Zhonglou)と鼓楼(ころう、Gulou)がアクセントとして効いている。夜もライトアップされて街に歴史の彩りを添える。夕食はホテルの中にあるレストランの看板でバイキングの表示を見つけたので、試してみることにした。仕事帰りの会社員らしき人がぞくぞくやって来る。店内はとてもにぎやかで流行っているようだ。食事内容も悪くなく、飲み物(ビール)もバイキングに含まれており、かなり満足。

タクシー                       12

長距離バス(洛陽→西安)     82×2=164

地図                          

夕食                         87

アイス                           4

宿泊費/日                    343

計                       613RMB(=9195円)

2007.5.27 少林寺(第33日)

 今日はちょっと遠出してバスで少林寺へ向かった。マイクロバスだったので長時間は少し身体がしんどい。バスを降りるとだだっ広い駐車場の中、大きな門らしきものが見える。当然のように大規模観光地化された公園のような入口。時代劇作家、金庸(きんよう)の武侠ドラマによく登場する趣のある少林寺総門の姿は見当たらない。ちょっと盛り上がりに欠け、残念。

 少林寺(しょうりんじ ShaolinSi)は中国五岳の一つ嵩山(すうさん SongShan)の西麓に位置する。禅宗発祥の地として有名。中国に渡ったインド僧達磨大師(だるまだいし)がここ嵩山で9年間の座禅修行の末、悟りに達し、527年に禅宗を開いたという。また、少林寺の僧徒が唐の太祖李世民(りせいみん)の天下統一を助けたことにより、少林拳の名が広く知れ渡った。

Shaolinsi01 Shaolinsi02  境内はとてつもなく広い。それぞれの場所への移動(歩き)に時間がかかる。帰りのバスの時間が気になる。なぜかその日は旅のテンションが低かったため、あまり活動的ではなかった。結果的には塔林(とうりん Talin)と呼ばれる歴代僧侶の墓地と少林拳のアトラクションを観るにとどまった。塔林はレンガの塔が林立する面白い景色が広がる。少林拳のアトラクションはちょっと上海雑技団を思わせ、期待外れだった。ちなみに上海雑技団はきらいではない。後から思うと、せめて達磨大師が修行を行ったとされる達磨洞へ行っておけば良かったと後悔している。

 洛陽までの帰りについて中国らしいちょっと面白い経験をした。帰りの路線バスの停留所を探して駐車場をうろうろしていると、怪しいおばさんが声をかけてくる。「洛陽まで帰るのか?」「バスあるよ。」 僕は客引きがとてもきらいで、今回もそのおばさんを無視し続けた。しかし何の拍子か、そのおばさんに3、4回目に遭遇した際に話を聞いてみた。するとある男の人のところへ連れて行かれた。そのおじさんはどうやらツアー観光客の帰りを待つバス運転手のようだ。バスツアーの余っている座席を有効利用して少しでも稼ごうというわけだ。運転手は客を連れてきたおばさんにいくらか渡して、あとは自分の小遣いにするのだろう。うーんこういう所に中国人のたくましさを感じる。値段も法外ではなかったので、その話にのることにした。しばらくしてバスに乗り込み、2人で適当な席に座る。後から続々とツアー客が戻ってくる。我々のせいで皆座る場所が狂ってしまったようだ。「あれーどうして私の席が無いのー?」「前と人が変わっていない?」と文句を言っている女性がいる。僕らはずっと顔を下に向けたまま。結局、どこでも空いている所に座れば良いということで事なきをえた。座席も広く行きと比べてかなり快適な帰り道だった。正直路線バスがどうなっているか分かりにくく、帰りが不安だったので結果的には非常に良かった。教訓:中国の観光地で帰りの交通手段はなんとかなる。

市内バス                       4

長距離バス(洛陽⇔少林寺)          73

少林寺                100×2=200

昼食                         39

夕食                         35

アイス・水                       9

宿泊費/日                    169

計                        529RMB(=7935円)

2007.5.26 龍門石窟、白馬寺(第32日)

 まずは洛陽観光の目玉、龍門石窟(りゅうもんせっくつ LongmenShiku)へ向かう。市内地図を見ると60路と81路のバスに乗れば龍門石窟へ着く。龍門石窟は敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)、大同(だいどう)の雲崗石窟(うんこうせっくつ)と並ぶ中国三大石窟の一つ。世界遺産にも登録されている。

 バスを降りて人の流れに従って、てくてく歩くとゲートに辿り着く。入場券を購入してゲートを抜けると、川の両側に岸壁がそびえ立つ壮大な景色が突然現れる。まるで別世界。岸壁には蜂の巣というか蟻の巣というか無数の穴があけられている。近づくと、その一つ一つの中に数えきれない程の石像が彫られている。壁に掘り込まれた無数の仏様。今まで見たこともない光景に圧倒される。言葉が出ない、文句無く第一級の観光地だ。2300以上の石窟と壁龕(へきがん ニッチ)、10万体以上の仏像が東西両岩肌に刻まれている。西山中央に位置する奉先寺(ほうせんじ)の盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は高さ17mを超える。規模のすごさ、数のすごさ、中身のすごさ、その全てを兼ね備えている。得体の知れないエネルギーが確かにそこにある。かつて無数の信徒がひたすら仏像を彫り続ける姿が目に浮かぶ。洋の東西を問わず、宗教の力というのは計り知れない。宗教の力を借りずにこれだけのものつくり出すことは不可能だろう。

Longmen01 Longmen21 Longmen19  かなり風化したものからはっきりお顔の分かる仏像まで色々だ。ただ、首から上の無い仏像が多いのが気になる。盗掘だろうか。ここ龍門石窟も敦煌の莫高窟も唐代につくられたものが一番多い。唐代が仏教信仰の一番さかんだった時代ということか。ここで一つ疑問が浮かぶ。世界中で現在石窟を造営しているという話を耳にしたことが無いが、ひとはなぜ石窟造営を止めてしまったのだろうか。水面の反射が岩肌にゆらめく様子になぜだか心をとられていた。不自然に開発した観光地が多い中国にあってここは来て良かった。本物の観光地だ。

 バスで再び洛陽の町にもどると、日が暮れる前にとタクシーで白馬寺(はくばじ BaimaSi)へ向かった。白馬寺は中国で最初の仏教寺院といわれる。後漢時代の68年に天竺から仏典を白馬に積んで来た2人の僧侶が開祖とされる。境内を歩いていると、やけに僧侶のかっこうをした人が多いことに気づく。どうやら白馬寺の僧侶ではなく、観光客としての僧侶のようだ。「お坊さんも観光でお寺にやって来るんだ?」と単純に感心した。馬の像の前で記念写真を撮るお坊さんの姿はとても微笑ましい。歴史ある寺院なので当然といえば当然なのだろう。僧侶の間では一度は行ってみたい寺院人気No.1かもしれない。

Baimasi03 Baimasi05 奥の方へ進むと斉雲塔と呼ばれる日本ではあまり見られないレンガの塔がある。金代の1175年創建で13層からなり、優美な曲線を描いて細くなる美しい塔。なぜか塔の前で皆手を叩いている。親切にここに立って手を叩けと教えてくれる人がいる。わけも分からず手を叩いてみた。ちょっと音が響いたような響かないような・・・。後で調べると塔の前20mくらいの所に立って手を叩くと、エコー現象でカエルの鳴き声が聞こえるということらしい。出入口の方へ戻る途中、妻が何かを見つけた。近寄ってみると「狄公仁杰之墓」と刻まれた石碑がある。これは、なんと狄仁傑(てきじんけつ DiRenjie)の墓ではないか、二人してちょっと興奮。裏に回ると別の石碑に「狄梁公墓」と刻まれてある。こちらの方が墓石だろうか。狄仁傑は唐代の名宰相。武則天が特に信頼していたという。実際の狄仁傑がどんな人物だったかよく知らないが、「神探狄仁傑」という時代劇ミステリーの連続TVドラマに夫婦してはまっていた。テレビドラマを見ていると旅行もより楽しくなるものだ。

市内バス                       20

タクシー                        40

龍門石窟                 80×2=160

白馬寺                    35×2=70

昼食                          45

夕食                           33

買い物                         18

宿泊費/日                     169

計                       555RMB(=8325円)

2007.5.25 洛陽へ(第31日)

 長距離バスで開封(かいほう Kaiheng)から洛陽(らくよう Luoyang)へ向かった。洛陽も開封同様、歴史都市として名高い。東周(とうしゅう)、後漢(ごかん)、魏(ぎ)、西晋(せいしん)、北魏(ほくぎ)、隋(ずい)、唐(とう)、後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)と9つの王朝が都を置いたことから、九朝古都と呼ばれる。唐代の首都は長安(西安)であったが、高宗(こうそう)と武則天(ぶそくてん)は、副都である洛陽に長期滞在することがしばしばだったという。

 洛陽に着くと、いつものように市内地図を買ってホテルの位置とバス路線を確認する。洛陽での宿泊は事前にe-Longでネット予約したチェーンホテルの如家(ルージア RuJia)。如家はエクセレントではないが、安くて清潔なのでよく利用する。路線バスに乗ると、地図とにらめっこをしながらホテルまでの道をたどる。初めての町ではホテルに辿り着くまでは気が抜けない。中心街を抜けてしばらく西へ向かったところのホテル近くであろう停留所で降りる。幸い、バス亭を降りてからもすんなりホテルを見つけることができた。チェックインを済ませて部屋に入ると、緊張が解けたためか2人して昼寝をした。

 夕方にホテルの近所を散策に出かけた。適度な人ごみと街路樹が整備された町並みが心地良い。街歩きをしていると街路樹のありがたさが身にしみる。中心から少し外れた中国でよくある住宅と小店が混在した地域で、なかなか雰囲気が良い。割と気に入った。途中シンセンでもなじみのある大型チェーン電気店を見つけ、そこでデジカメのメディアを購入。ファミレスのようなところで洋風定食を食べて部屋に戻った。

タクシー                        5

長距離バス(開封→洛陽)      42×2=84

市内バス                        2

SDメモリー                       135

買い物                        58

夕食                          53

宿泊費/日                     169

計                        506RMB(=7590円)

2007.5.24 大相国寺、龍亭公園、包公祠(第30日)

 開封(かいほう、Kaifeng)は歴史都市として名高い。大梁、後梁、後唐、後漢、後周、北宋、金と7つの王朝が都を置いたことから、七朝古都と呼ばれる。北宋時代(960-1126)は100万人を超える世界最大級の都市、東京として栄えた。

 翌日には発つ予定なので、主要な観光スポットを一日で回った。まずは相国寺(そうこくじ XiangguoSi)を訪れる。相国寺は555年(北斉)に建国寺として創建され、712年(唐)の再建時に相国寺と改称された。荒れた時期もあったが、中国十大名寺の一つともされる由緒ある寺院。我が家(京 都)の近所にも相国寺という名前の寺があり、現在は交流もあるようだ。名前も中国の相国寺からとったという説もある。京都の相国寺は金閣寺や銀閣寺を末寺とする相国寺派の本山で、京都五山の一つに数えられる。

Xiangguosi01 Xiangguosi03  ここ開封の相国寺に話を戻す。境内は程良い人ごみで、普通のお寺の雰囲気が心地良い。ツアーの団体さんをあまり見かけなかったのが幸いしたのだろう。ここでの見所は八角堂とも称される羅漢殿(らかんでん)。安置されている千手千眼仏(せんじゅせんがんぶつ)は国内外で有名。高さは7mあり、いちょうの木から彫られた仏像は金箔で覆われている。千本以上ある手の各ひらに目が埋め込まれている。日本の仏像と比べると愛嬌があって親しみやすい。個人的には境内床の美しいパターンに感心していた。

 次に龍亭公園(りゅうていこうえん LongtingGongyuan)へ向かった。ここは歴代王朝の宮廷があった場所。建物はほとんど1949年以降に再建されたもので、公園自体も広いだけで、これといった趣は感じられない。ただ、中で行われていた宋の時代の衣装をまとった役者によるアトラクションはバカバカしく楽しかった。公園内の一角で流れるような口上で“清明上河図”を説明する声に誘われて、わけもわからず絵の縮小版コピーのおみやげものを買ってしまった。5RMB(75円)だから良しとしよう。清明上河図とは北宋末期に描かれた長さ5mに及ぶ絵画で、当時の都の様子を伝える資料として非常に貴重なもの。また、公園の南に延びる宋都御街という通りは宋代の楼閣店舗を再現したそうだが、子供だましでがっかり。

 最後に包公祠(ほうこうし BaogongCi)を訪れた。湖畔に建つこぢんまりとした気持ちの良い場所。包公祠は北宋時代の高官包拯(ばおじょう BaoZheng)を祀って建てられた。包拯は清廉潔白な官吏として民衆から慕われたと言う。公正な役人だったということくらいで後に祀られてしまうなんて、うがった見方をすると、当時の役人の多くは相当ひどかったのだろうか。そういえば、中国の時代劇に弱い住民をいじめる地方役人の姿がよく出てくる。とは言え、日本の時代劇も50歩100歩かもしれない。ここに来るまで知らなかったのだが、この包拯というのは中国の人気ドラマシリーズ「包青天(BaoQingtian)」でおなじみの包大人(BaoDaren)のこと。「包青天」は包拯が公正無私な態度で悪人を裁き、民衆を助けるという勧善懲悪の時代劇。「水戸黄門」や「遠山の金さん」などを想像すればよい。包大人といえば額の三日月の傷がトレードマークだが、ここにある包公の銅像の額はきれいなものだった。ちょっとがっかり。三日月の傷は勝手な演出のようだ。

Kaifeng01 夕方になるとホテルのある鼓楼街(GulouJie)の界隈を散歩した。鼓楼街から北へ上がる本屋がずらりと並ぶ通り書店街(ShudianJie)はなかなか雰囲気もあり、歩いて面白い。宋都御街のようなわざとらしさが無い。

相国寺                 30×2=60

昼食                         22

龍亭公園                ×2=70

包公祠                 20×2=40

バス                         2

ジュース・菓子                  14

清明上河図                     5

夕食                        49

宿泊費/日                   198

計                       460RMB(=6900円)

2007.5.23 開封へ(第29日)

 5月に一度シンセンに戻る用事が無くなったので、そのまま旅行を続けることにした。妻とどこへ行こうかと色々相談しているうちに「ラサまで行っちゃう?」という話になり、旅の最終目的地をチベットのラサに決めた。10年以上昔に何かの本を読んで以来「いつかラサのポタラ宮を見てみたい」と思っていた。ラサまでの道のりは長い。途中どこに寄ろうか。西安(せいあん Xian)は絶対に訪れたい。南京、西安、それなら、歴史都市シリーズとして開封(かいほう Kaifeng)、洛陽(らくよう Luoyang)にでも行ってみよう。

 南京から列車で開封へ向かった。残念ながらこの工程は速くて快適な中国版新幹線は走っていない。南京13時49分発、開封20時39分着、乗車時間は6時間50分になる。ちなみに乗車券は一人87RMB(1305円)と安い。案の定、快適性は求められない。4人掛け向かい合わせのボックス席で、かなり狭い。見知らぬ向かいの人と足がぶつかる。7時間この状態はちょっときつい。僕の隣は小柄な若い男性で、向かいは老夫婦。妻は通路を介した隣のボックス席に座る。

 この狭い席に向かいの老夫婦はよりによって自転車を持ち込んでいる。僕は通路側に足を投げ出せたから良かったが、隣の若者は悲惨。足を大きく折り曲げた状態で縮こまっていた。老夫婦は申し訳なさそうに一所懸命自転車を自分の方へ引き寄せて手で押さえていたが、あまり効果がない。隣の若者は長時間無理な体勢を強いられ続けることになる。が、しかし、いやな顔一つしない。「お互い様なのだから、しょうがない」といった感じで。

 僕らは途中車内販売のお弁当を買ったが、多くの乗客はカップ麺を持ち込んで食べていた。お湯は自由に使えるシステムになっているため、多くの乗客はお茶葉を入れたボトルとカップ麺を持ち込んでいた。その様子を見ているとこっちまでカップ麺が食べたくなってきた。

 最初の2時間くらいは割りとすぐに時間が過ぎた。しかし、それからが長い。この不快な状態での7時間というのは実にしんどい。周りの人たちと仲良くおしゃべりでもしていれば時間が経つのを忘れるのかもしれないが、僕はそこまで社交的にできていない。妻は僕らが日本人だということを周りに悟られるのを気にしているので、妻との会話もあまり弾まない。日が落ちると更に時間が長く感じられる。

 ようやく開封(かいほう Kaifeng)につくと、向かいの老夫婦も立ち上がる。おじいちゃんが自分の荷物と自転車を抱えて歩こうとするが、危なっかしい。見てられず、自転車を持ってあげることにした。話を聞くとどうやらこの自転車は孫へのおみやげらしい。改札を抜けると息子夫婦らしい出迎えが来ていた。彼らに自転車を渡して別れた。夜に知らない町に着くのは気持ちの良いものではない。なんだか全てが怪しく見える。右も左もわからない。とっととタクシーを拾って、ネットで予約をしていたホテルの名前を運転手さんに告げる。

列車(南京→開封)    174

昼食                           40

夕食                           40

タクシー                          6

宿泊費/日                     198

計                        458RMB(=6870円)

2007.5.22 太平天国歴史博物館(第28日)

 南京市は江蘇省(こうそしょう)の省都で、古くから江南地方の中心地。人口は2007年時点で740万人にも上る。北京、西安、洛陽と並び中国4大古都のひとつとして歴史は古い。紀元前472年に越王「勾践」(えつおう こうせんGouJian)が城を築いたのが始まりという。3世紀以降は、東呉、東晋、宋、斉、梁、陳、南唐、明と数多くの王朝の都が置かれた。

 南京と言ってまず思い浮かぶのは“南京大虐殺”。そこで、日本の残虐行為を後世に伝えるための施設、“侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館”という長い名前の博物館へ向かった。途中“莫愁湖(ばくしゅうこ)”と呼ばれる湖の横を通ったが、囲われているため入場料を支払わないと景色を楽しむこともできない。なんら町の環境に貢献することなく観光地として区画されてしまっている。観光地とそれ以外を完全に区切ってしまうこの中国の習慣なんとかならないものだろうか。地図を片手に博物館を目指してかなり歩き回ったが、なかなか見つからない。他都市と同様で工事中の場所が多くて参る。非常に歩きにくいし、道も分かりにくい。待てよ、この延々と続く仮囲い・・・あらっ博物館自体が工事中ではないか。かなりの規模拡張するようだ。苦労して歩き回ったのが無駄骨。どっと疲れた。北京オリンピックに合わせての改築だろう。

 さて、困った。他に行くところを決めていない。結局、一日目に行った夫子廟(ふうしびょう FuziMiao)周辺の繁華街へ再び行くことにした。瞻園(せんえん)という古典園林のある屋敷に入った。ここは元々朱元璋(しゅげんしょうZhuYuanzhang)が明朝を起こすのに大きく貢献した将軍、徐達(じょたつXuDa)の邸宅。江南の園林は蘇州(そしゅう)で既におなかいっぱい観たので、ここでは隣の太平天国歴史博物館をじっくり見学した。

 かなり充実した展示内容で、当時の状況が伝わってくる。 “太平天国の乱”というと江戸時代の“大塩平八郎の乱”と似たようなものかなといういい加減なイメージしか持っていなかった。しかしながら、大塩の乱はたった半日で鎮圧されたのに対し、太平天国は1851年から64年までの10年以上に渡って続いた。清朝という大国の中に“太平天国”という独立国家が確かに存在したのだ。実際に独自通貨を流通させ、独自政策の実現により経済的発展も遂げた様子が展示で分かる。太平天国は指導者である洪秀全(こうしゅうぜん)が科挙に何度も落第した後、キリスト教の影響を受けた宗教団体を組織したのが始まり。民族独立、土地の均分、男女平等、租税軽減などを掲げ、理想国家を目指した。これは後の中国革命に影響を与えたという。展示を追っていくと、民衆の立場に立った理想国家の実現のために立ち上がった指導者たちがだんだん腐敗し、内紛していく様子が示されている。いつの間にか自分たちが最も嫌った民衆を省みない腐敗役人と同類になり下がるという皮肉な結果に陥った。権力を持った後も理想を追い続けることの難しさ、人間の弱さを暗示している。最後に著名人による太平天国に対する総括が展示してあるのも面白い。

市内バス・地下鉄     16

瞻園・太平天国歴史博物館入場料       30

夕食                         68

ジュース・パン                   20

コーヒー                       69

ネット使用料                    45

宿泊費/日                    224

計                       472RMB(=7080円)

2007.5.21 美齢宮(第27日)

 美齢宮(びれいきゅう MeilingGong)は1931年に国民政府主席官邸として南京政府によって建てられた。1933年に竣工し、当初は“小紅山官邸”と呼ばれていた。後高級官僚が中山陵(ちゅうざんりょう ZhongshanLing)を訪問した際の休憩場所として使われた。1947年に国民党政府が重慶(じゅうけい)から南京に移った後、蒋介石(しょうかいせき)官邸となった。蒋介石とその妻、宗美齢(そうびれい)がよく滞在していたために美齢宮と呼ばれるようになった。

 地下1階、地上3階、床面積2000㎡余りの中国式宮殿建築。36万銀元を費やしたとされるが、現在でどのくらいの価値なのかはわからない。緑の瑠璃瓦、朱色の柱、そして梁が極彩色で飾られたいかにも中国的な外観だ。何度見てもこの色彩感覚には慣れない。1000以上もの鳳凰の彫り物が見つかっているそうだ。一方、内部空間は悪くない。ステップフロアになっており、構成が面白く、間取りもシンプルで分かり易い。旅行書によると「贅を尽くしたインテリアや装飾品、華やかな宗美麗の生活ぶりを知ることができる」とある。さぞかし豪華なのだろうと期待して来たのだが、それ程でもない。ちょっとがっかり。部屋の広さ、前面に広がる庭園など空間的には贅沢かもしれないが、贅を尽くすとは言い過ぎだろう。もっと華麗な室内を想像していた。当時としては凄いということなのだろうか。

Meilinggong01 Meilinggong04  1階で宗美齢の足跡が展示紹介されている。宗美齢は清国の有力財閥、宗氏の三女として上海で生まれた。次女、姉の宗慶齢(そうけいれい)は“中国革命の父”孫文と結婚している。アメリカ留学から帰国後、新しい時代に向かってそれぞれの道を歩む「宗家三姉妹」は映画にもなっている。宗美齢は積極的に夫の政治活動に関わり続けた。特に、第二次大戦中に抗日援助を訴えて全米を演説して廻ったことは有名。このことがアメリカの世論を大きく動かしたと言われている。蒋介石の死後は、アメリカに住居を移し、2003年に105歳の生涯を閉じた。

 この日は南京博物館にも寄っている。1933年に開館した歴史のある総合博物館で、貴重な収蔵品を数多く持つ。個人的には狂ったように精緻な木彫刻の容器や壷に感嘆した。この精緻さは今中国のどこへ行けば出会うことができるのだろうか。

市内バス・地下鉄     18

美齢宮入場料                   30

博物館入場料                   40

夕食                         78

アイス・パン                     8

コーヒー                       39

宿泊費/日                    224

計                       437RMB(=6555円)

2007.5.20 明孝陵、中山陵(第26日)

 明朝の創始者朱元璋(しゅげんしょう ZhuYuanzhang)の陵墓、明孝陵(みんこうりょうMingXiaoling)を見に出かけた。明孝陵は孫文(そんぶん)の陵墓、中山陵(ちゅうざんりょう Zhongshanling)と共に市東側の紫金山(しきんざん)の南麓に位置する。ここは、鐘山風景名勝区と称する一大観光地となっており、連日大勢の人々が訪れる。

 朱元璋が眠る宝頂に登ることができる。明代の陵墓では最大規模だそうだが、小ぶりな円形古墳で、木々が生い茂る小山といったところ。仁徳天皇陵のイメージのせいか、小ぶりに感じてしまう。

Mingxiaoling01 Mingxiaoling02  多くの建造物は戦火で焼かれてしまったが、当時25年の歳月をかけて造営されたそうだ。石像新道と呼ばれる1.8kmに及ぶ参道があり、両脇を獣と兵士の石像が守る。明代から残る貴重な彫像物だが、全体的にずんぐりむっくりしたかなりかわいい像だ。ちょっと朱元璋に対しても親しみを感じる。本来参道は一直線に続くものだが、ここは廻りこむ配置になっている。近くに三国時代の孫権(そんけん SunQuan)の墓があるのだが、朱元璋が孫権に敬意を払ったと言われている。

 朱元璋は貧農の出で、乞食坊主を経て、最後は皇帝にまで登りつめた。秀吉を凌ぐ出世ぶりは古今東西、歴史上最大ではないだろうか。朱元璋は農民、一般庶民に対しては善政をしいたが、かつての同志や官僚にとっては最悪の存在だった。李善長(りぜんちょう LiShanchang)、胡惟庸(こいよう HuWeiyong)、藍玉(らんぎょく LanYu)といった功臣をことごとく粛清した。これらの粛清により処刑された数は数万人にのぼるという。これは全て彼の生い立ちによる。つまり、農民の貧しさ、苦しさを身をもって知っているので、一般庶民に対しては心から同情した。一方、自分自身が下克上を実践してきたため、部下を完全に信頼することができなかったのかもしれない。部下を信頼できないため、権限という権限をどんどん自分自身、つまり皇帝に集めるように制度を変えていった。故に皇帝の執務量は想像を絶する膨大さとなった。事実、洪武帝(こうぶてい HongwuDi)は24時間働き続けたという。これは人並み外れた精力の持ち主である朱元璋だからできた芸当。 

また、生涯自分の生い立ちに劣等感を抱き続けた。このことは、「文字の獄」と呼ばれる悪名高い冗談のような知識人に対する大弾圧を引き起こした。「光」「禿」「僧」などの文字を使っただけで、洪武帝がかつて僧侶だったことをバカにしたとみなして殺された。これは更にエスカレートしていき、同音異義語の文字使用に対しても疑いがかけられ、死刑執行が行われた。

 この稀有な皇帝は、当時の社会に対して計り知れない貢献を果たすと同時に、計り知れない損害を与えたようだ。

 隣にある“中国革命の父”孫文の陵墓、中山陵(ちゅうざんりょう Zhongshanling)に寄る。山麓の広場から一直線に各施設が並び、392段の石段を登りきると祭堂に辿り着く。途中の門の扁額等に孫文が残した言葉が散りばめられている。石段の数は1912年に中華民国が成立したときの人口が3億9200万人だったことによる。延々と続く軸線と人間的スケールを超えた広大さにうんざりすると共に中国らしさを感じる。国際コンペにより当時まだ30歳前後の若手建築家呂彦直(LvYanzhi)が設計者に選ばれた。当時の設計図やコンペ落選案なども屋外に展示されてある。

Zhongshanling01  祭堂の中にはフランス人彫刻家の手による孫文坐像があり、壁面には「建国大綱」の文章等が刻まれている。ワシントンD.C.のリンカーン・メモリアルを想わせる。奥の墓室に大理石の棺が安置されている。棺の上にはチェコの彫刻家が臨終の姿を製作した孫文臥像が置かれている。この臥像がとても厳かな空気をつくり出しており、心を動かされる。

 孫文は1925年に北京で病死し、1929年に棺がここ南京中山陵に移された。当時の様子を屋外展示で知ることができる。孫文だけは大陸、台湾どこへ行っても全ての中国人の尊敬を集めていることを感じる。

市内バス           8

明孝陵・中山陵入場料             260

夕食                         57

水・アイス                      11

買物                         52

宿泊費/日                    224

計                       612RMB(=9180円)

2007.5.19 新幹線で南京へ(第25日)

 一週間と長居した友人宅を後に、無錫から南京(なんきん、ナンジン)へ列車で向かった。2007年4月のダイヤ改正で登場したばかりの中国版新幹線に初乗車。これは和諧号(ヘゥーシエ号)と呼ばれる動車組(ドンチャーズー)の高速列車で、時刻表等に記載のある列車番号の頭にDの記号が付く。川崎重工の新幹線E2系を元に中国のメーカーと共同開発されたものが多数を占めている。川崎重工以外ではボンバルディア(カナダ)、シーメンス(ドイツ)、アルストーム(フランス)のそれぞれが中国メーカーと共同開発した高速鉄道が走行している。中国らしいと言えば中国らしいのだが、海外メーカーの名前はあまり表に出ず、基本的に中国製という言い方をしている。

 事前に買った切符を手に改札を抜けて待合場所へと向かった。どうやらこの高速鉄道とそれ以外の列車に乗る人の待合場所が別れているらしい。人で溢れかえる中国の駅のイメージとは違い、ゆったりスペースが確保されている。高い切符を買った乗客を特別扱いしてくれているようだ。見渡すとまわりの乗客もマナーが良さそうに感じる。ちなみに切符代は無錫から南京まで片道一人51RMB(770円)と非常に安いと思う。

 車両外観は白地に青のラインが入り、日本の新幹線のイメージそのまま。中国製と言いたいのであれば、日本の新幹線を想起させないカラーリングをすれば良かったのにと思いながら列車に乗り込んだ。座席も清潔でゆったりとしている。無錫で買ったポケット時刻表を眺め、友人が持たせてくれたおにぎり(E子さんのおにぎり最高!)を開いて出発を待つ。静かーに動き出し、徐々に加速する。乗り心地も日本の新幹線と全く変わらず素晴らしい。約一時間の快適な旅だった。僕の中の中国の鉄道のイメージが大きく変わった。中国旅行でこの動車組(ドンチャーズー)を利用するのはお薦めだ。

 南京ではチェーンホテルの如家(ルージア)に泊まった。大きな町には大抵如家ホテルが数軒ある。幸いここでは地下鉄新街口(シンジエコウ)近くにある非常に便利な場所に宿泊することができた。

 チェックインを済ませた後、まず繁華街の夫子廟(フーズミァオ)周辺へ向かった。週末だったせいか人出が多く、かなり賑やかだ。ちょっと作られた観光地という感がいなめないが、初日としてはちょうど良いかもしれない。川の辺りをぶらぶらした後に江南貢院(ジアンナンゴンユエン)と呼ばれるかつての科挙(かきょ)の試験会場を訪れた。

Jiangnangongyuan06Jiangnangongyuan04 二畳ほどの小部屋に9日間閉じ込められて受験をしたらしい。想像を絶する過酷な試験。この小部屋が再現されて、中に受験生の人形が置かれている。受験生が漏らしたであろう「こんな狭いところに何日も閉じ込めて・・・」といった文句が書かれてあり、微笑ましい。ここは中国最大の試験場で、2万室以上もあったという。展示されている平面図や模型から当時の様子を想像してみると面白い。小部屋が並んだ号舎一列で何十メートルあるのだろうか。一列だけでも再現したら、さぞ迫力あることだろう。

 科挙試験の成績トップ3を上から状元(ジュアンユエン)、榜眼(バンイェン)、探花(タンフア)と呼ぶ。展示の中に出身省別の状元、榜眼、探花の歴代合計数が示してある。なんと6割近くが江蘇省と浙江省の2つの省出身者で占められている。当時の江南地方がいかに他を圧倒して文化度が進んでいたかがうかがえる。

Nanjing07 Nanjing08  夕方頃、市の南に位置する城門“中華門(ジョンフアメン)”を見に行った。明代の南京城の正門で、巨大。幅、奥行きともに100mを超える。門兵の人形が並ぶ横、馬で駆け上がったであろう斜路を登る。城門上から眺める夕日に照らされた南京の町は印象深かったが、横で城壁を一所懸命建設している様子が気になる。このずっと続く城壁は遺跡ではなく、新しくつくられたもの?ということはこの城門は本物なの?まあ、現存する中国最大の城門と言うのだから、一部を修復したということなのだろう。

市内バス           4

列車(無錫→南京)               102

地下鉄         4

江南貢院   30

アイス                         4

中華門                       40

夕食                         30

宿泊費/日                    224

計                       438RMB(=6570円)

2007.5.18 宝帯橋、木瀆(第24日)

 今日は蘇州(そしゅう、スージョウ)郊外にある古鎮(古村)木瀆(ムードゥー)へ友人奥さんと3人で出かけることにした。長距離バスで蘇州に着くと、木瀆へ行く前に宝帯橋(バオダイチアオ)と呼ばれる中国最長の石橋を見に行った。

Baodaiqiao02 幅4m、長さ317m、53の半円アーチが連なる端正で美しい石造アーチ橋。中央部が盛り上がって高くなっており、大舟はこの中央部アーチを、小舟は他のアーチをくぐる。北京と杭州を結ぶ人口運河としては世界最長を誇る京杭運河にかかる。唐代(618-907)の地方長官仲舒が寄付を募って、自らも腰に結んでいた家伝の宝帯をお金に代えて架けたことから宝帯橋と呼ばれる。その後、明代に再建されている。今でも貨物船が行き交い、そこにはゆっくりとした時間が流れている。昔から、そしていつまでも続いていくような風景がそこにある。街中から離れた少し不便な場所にあり、「これを見るぞ!」とはっきり目的を持って訪れると少しがっかりするかもしれない。ただし、息抜きがてらちょっと寄ってみるなら、良いところかもしれない。しばらくスローな時間と空間を味わった後、木瀆(ムードゥー)へ向かった。

木瀆は紹興、鳥鎮、南潯、西塘などと同様の江南地方の水郷村(古鎮)。明、清代には30以上の個人庭園があり、江南園林の都とも呼ばれる。 蘇州(そしゅう)南西の風光明媚な霊岩山(リンイェンシャン)の麓に位置する。2500年前呉王「夫差」(ごおう ふさ)が絶世の美女西施(せいし)を喜ばせるために霊岩山頂に館娃宮(グァンワーゴン)という離宮を建てた。木瀆中心に香渓(シァンシー)という川が流れているが、かつて西施が水浴びした水が流れ込み、それ以来ずっと良い香りが漂っていたと言う。香渓という名もそんな伝説からついた。

日本を含めどこの国でも女性が美人であるということは人生を大きく左右するが、中国ではその傾向が特に激しい気がする。また、そのことが公然としている。美人であるというだけで、貧しい境遇から頂点へ昇りつめたり、西施のように政治的に利用される例がいくつもある。孫子の兵法でも「美人の計」という戦術を述べている。北京オリンピック開会式の口パク問題などもそれを象徴している。

Mudu02 Mudu04 Mudu10 Mudu13 園林(庭園)自体は特にどうという印象はなかったが、建物が面白かった。3次元を自由につなぐような渡り廊下は、歩いていてとても楽しい。イラク出身の世界的女性建築家ザハ・ハディドの自由な造型に通じるものがある。園林全体のために工夫した結果、建築自体に面白みが生まれたというのが本当のところだろう。園林と建物は切っても切り離せない関係にあり、どちらかと言えば、建物は園林全体を成り立たせる構成要素の一つでしかない。従って園林は今ひとつだが、建物は良いという表現は本来おかしいのかもしれない。しかしながら、蘇州園林に比べると見劣りがした。他の地域ではあまり無かったと思うのだが、屋根面や妻壁に施された彫刻もかわいらしい。

 時間が足りず、2,3の施設しか見て廻れなかった。いつか蘇州あたりに来る機会があれば、また木瀆にも寄りたい。

市内バス           18

バス(無錫⇔蘇州)                 86

木瀆入場料            120

昼食                          29

夕食                         130

コーヒー                        53

タクシー                        84

計                       520RMB(=7800円)

2007.5.17 太湖、蠡園(第23日)

 無錫(むしゃく)に来て太湖(たいこ)に行かないわけにはいかない、ということで黿頭渚公園(げんとうしょこうえん)を訪れた。スッポンの頭の形に似ていることから、こう呼ばれている。広い太湖の中でも特に美しい風景とされているそうだ。例の如くここも「景区」と称して中を整備して囲い、入場料を払うシステムになっている。ただ太湖を眺めに来るということができない。

 とにかく太湖の水が汚い!抹茶の粉のようなものが湖面を覆っており、見た目もひどく、においもする。風景を楽しむどころではない。わざわざ高い入場料を払って気分を悪くしにいったようなものだ。お決まりとして無錫旅情の碑を拝む。日本語歌詞を直訳した分かり易い中国語訳が彫ってあり、ちょっと面白かった。

 帰りに蠡園(リーユエン)という范蠡(はんれい)ゆかりの地を訪れた。范蠡はここで中国四大美人のひとり西施(せいし)と隠棲したという伝説が残っている。

 范蠡は春秋時代越王「勾践」(えつおう こうせん)に仕えた名軍師。呉の国を滅ぼし、勾践に復讐を遂げさせた立役者。しかし、得意絶頂の君主のそばにいるのは危険として越の国を去った。後、もう一人の名臣文種(ウェン ジョン)へ宛てた手紙にも「勾践について苦難を共にできるが、歓楽はともにできない人相」と書いている。実際、越に残った文種は勾践に剣を賜り、自殺させられている。

 范蠡の面白いところはその後の人生。まず斉の国で鴟夷子皮(しいしひ)と名乗って商売を行い、巨万の富を築いた。名が知れ渡り、斉の宰相に迎えられると、財産を他人に分け与えて斉の国を去る。今度は宋の国の陶の地で陶朱公(とうしゅこう)と名乗って商売をはじめた。ここでも成功して巨万の富を築いた。その間に2度も自分の財産を全て散じて貧しい人々に分け与えたと言われている。陶朱公の名は後世には大商人の代名詞になった。

 范蠡の活躍と共にみごとな出処進退は人々の人生の目標として語り継がれている。

 ただ、蠡園自体は訪れる価値がある場所とはちょっと思えない。

市内バス            14

黿頭渚公園                      210

蠡園           80

水                             3

コーヒー                         64

夕食                           46

計                        417RMB (=6155円)

2007.5.16 無錫の町(第22日)

 今日は無錫(むしゃく)の町中をぶらつくことにした。友人宅からバスで町の中心へ向かった。シンセンにいた頃にはシンセンのバス事情に色々不満を持っていた。しかし、中国の他の町を旅行していると、「シンセンのバスはなんて快適なのだろう!」と思うに至ってきた。ただ、他の町よりシンセンのバス代はかなり高い。ここ無錫のバスは特にひどい。まず、車輌がボロくて遅い。おまけにエンジンが車内に露出するタイプもあり、不快指数の高さといったらない。と言いつつ、公共交通好きの僕はバスを利用し続けるのだが。

Wuxi35 Wuxi36  どの観光案内にも載っている錫恵公園(シーフイこうえん)へ行ってみることにした。錫山と恵山の2つの山にまたがる広大な公園。リフトや動物園まであり、多くの市民で賑わっていた。僕らは清の康熙帝(こうきてい)や乾隆帝(けんりゅうてい)が6度の南巡の度に訪れたと言われる寄暢園(きようえん)という庭園へ向かった。道が分かりにくくなかなか辿り着けなかった。途中「天下第二泉」という所があった。ここは唐代の茶聖陸羽(りくう)が天下第二の味と評したことからそう呼ばれる。寄暢園は明代の高級官僚秦金(しんきん)という人が造った名園で、秦園とも呼ばれる。池の周囲に配した回廊、東屋、橋が豊かな緑と調和してひっそり落ち着いた都会の喧騒を忘れさせてくれる居心地の良い場所だった。

 午後は友人に教えてもらった茶館で夕方まで過ごした。

市内バス             4

錫恵公園                        50

茶館          116

買物                          118

計                        288RMB (=4320円)

2007.5.15 張公洞(第21日)

 友人宅にある無錫(むしゃく)のガイドブックに載っていたある洞窟の写真に妻が反応した。「“笑傲江湖”(シアオアオジアンフ)に出てきた景色だ!」どうやら、侠客時代小説作家である金庸(ジン・ヨン)原作の連続テレビドラマ「笑傲江湖」に登場するロケ地ではないかというのだ。僕もこのTVドラマは見ている。個人的には「笑傲江湖」の原作は読みやすくて面白かったが、TVドラマの方は今一つだった。言われてみるとこんな洞窟だった気もするが、それ程記憶がはっきりしない。この辺りの妻の観察眼と記憶力には敬服する。敬服はするが、ドラマのロケ地なんて興味が無い。

 この洞窟は張公洞(ジャンゴンドン)と呼ばれ、宣興(イーシン)市から20km程の郊外に位置する。宣興は無錫から車で一時間ほど離れている。つまり、ここ無錫から行くのは結構大変。たかが洞窟へそれ程エネルギーをかけて行くなんて価値ないよね・・・。友人奥さんが「行ってみようか。」まさかの一言。

 無錫駅から宣興へ向かう長距離バスに3人で乗り込んだ。宣興(イーシン)へ着くと張公洞へ向かう路線を教えてもらって再びバスに乗り込む。予想通りオンボロのミニバス。しばらく走ってから道の脇で停まってしまった。運転手の兄ちゃんが携帯で何やら怒鳴っている。いやな予感がする。「今どこだ!早くしろ!」 どうやら弟たちが来るのを待っているようだ。しばらくして若い男の子と女の子が走ってきた。やっと出発。さすが公私混同の中国、まあミニバスだし、よくあること。

 乗り心地の悪いミニバスでかなり走ってようやく着いた。辿りつくまでにすっかり疲れてしまった。辺りは何もなくさびれている。洞窟自体訪れる人がほとんどいないようだ。近所の暇な人たちが洞窟の入口で何するでもなくたむろしている。チケットを買って中へ入る。ちょっと胡散臭いが、隣で懐中電灯をレンタルした。

Cave04 中はかなり広く、洞窟としてはなかなか悪くない。ただ、これといって書き記すことも無い。「やっぱり、ここだ!」妻は少し興奮気味。友人奥さんもそれなりに楽しんでいるようだ。思った通り懐中電灯は別に無くても困らなかったが、まあいっか。

 帰る途中に紫砂壷(ズーシャーフー)の博物館に寄った。紫砂壷とは紫砂という土でつくった茶壷(急須のこと)で、ここ宣興(イーシン)市だけで生産されている工芸品。茶色い茶器で全体的にツルッとした形状だが、色々な装飾が付加されたものも多い。この急須でお茶を入れるとアクや渋味を除いてくれるとされ、最高の茶具と言われている。無数に空いた気孔がアクや渋味を吸着しながら保温性を高めるそうだ。

 宣興から無錫へのバスは、行きは1時間ほどだったのに、2時間以上かかったのではないだろうか。市と市を結ぶ長距離高速バスのはずが途中途中で乗客を拾い続ける。少しイライラしたが、ここは中国。昔福建省の福州からシンセン行きの長距離バスに乗って散々だったのを思い出す。乗客を増やすために福州市内をあちこち廻ってなかなか高速に乗ってくれない。運転手と組んで街中で乗客を探す手配師までいた。おそらくこれらの運賃はバス会社には渡らず、彼らが山分けしていたのだろう。宅配便の代理のようなこともやっていた。もちろん予定時刻には到着せず、おまけに意味分からず、直通バスに乗ったはずが、途中で他のバスに乗り換えさせられた。

市内バス             26

バス(無錫⇔宣興)             39×2=78

洞窟入場料        70

懐中電灯レンタル                    16

博物館                           40

コーヒー                          40

夕食                             97

タクシー                           10

計                          377RMB (=5655円)

2007.5.14 泰伯廟、薛福成旧居(第20日)

 無錫第一日目、友人宅奥さんと僕ら3人でまず泰伯廟(たいはくびょう)へ向かった。史記によると泰伯(たいはく、タイボー)は呉の国の祖とされている。泰伯は周王朝初代武王(ぶおう)の曽祖父である古公亶父(ここうたんぼ)の長男。末子の季歴に後を継がせるために泰伯は次男の虞仲(ぐちゅう)と共に国を去り、未開の地にやってきた。文明の全く無いこの場所に勾呉(こうご、ゴウウ)という国をつくり、人々を指導した。これが後の春秋時代の呉の国となる。

 泰伯廟(たいはくびょう)は泰伯が住んでいたと伝えられる場所に建つ。こぢんまりとした廟の中にカラフルで人形のような泰伯象が祭られてある。その他歴代呉王の像が並んでいる。最後になじみのある闔閭(こうりょ)と夫差(ふさ、フーチャイ)に行き着く。

 故事 “臥薪嘗胆(がしんしょうたん)”の夫差は、泰伯がせっかくつくった国を滅ぼしてしまったということになる。僕の中の勝手なイメージだが、2人の人物像として、「タイボーさん」と親しみを込めて呼びたくなる人格者の泰伯と世間知らずのおぼっちゃま夫差王が頭の中に浮ぶ。

 廟の中にある泰伯象はかわいらしく、あまり趣は感じられなかったが、この場所では思いの外楽しい時間を過ごした。全く知らなかった泰伯という人物、呉の国の地理や起源に触れることができた。その地の歴史を垣間見る、これが旅行の醍醐味の一つなのだろう。

 友人夫婦が夕食に清代の邸宅の一部をレストランとした薛福成(シュエ・フーチェン)旧居へ連れて来てくれた。薛福成は清末の外交官で思想家。少し早めに来て、中の展示や建物、中庭などをゆっくり見てまわった。まず、規模の大きさに驚く。敷地面積21,000㎡、建物床面積6,000㎡になる。南潯(ナンシュン)の大富豪の邸宅と同じかそれ以上だろうか。南潯の大富豪は商人なので理解できるが、薛福成は単なる官僚だ。官僚の収入でこんな大邸宅を建てることができたのだろうか。

Wuxi10Wuxi32Wuxi33 実際当時の法律によると、本当はこんな大邸宅を建てることは許されなかったようだ。説明によると清の官僚は位によって住宅の間口が決められていた。「二品以上の官吏の住宅庁堂(ホール空間)の間口は5間を越えてはならない」との決まりに対して薛福成邸は間口が9間ある。ここで面白いのは、万一役所からの指摘に備えて薛福成は小細工をしている。「9間ではなく3間のホールが3つあるのです。」と言えるように建物を分けたのだ。よく見ると柱2本並んでいる箇所がある。薛福成は歴史的にはかなり実績を残した人物であるが、官僚というものはいつの時代も、どこの国でもくだらないことに頭とエネルギーを使うものだ。

 入口から真っ直ぐ進むと、建物と中庭を交互に現れる典型的な清代江南地方大邸宅の構成になっている。また、手すりなどに洋風意匠もとり入れられている。非常に見ごたえのある場所だ。暗くなると提灯に火がともり、さらに趣を増す。友人夫婦のおかげで、すばらしい夕食のひと時を過ごすことができた。

泰伯廟入場料    10×2=20

昼食                            6

薛福成故居入場料 25×2=50

夕食                           200

タクシー                          25

買い物                          18

計                        373RMB (=5595

嘉興、煙雨楼(第20日)

 次の目的地は無錫(むしゃく)、ただ、その前に嘉興(ジアシン)に寄ることにした。嘉興(ジアシン)はせっこう省のそれ程大きくない町。日本人観光客もほとんど訪れることがないだろう。金庸(ジンヨン)の侠客(きょうかく)小説「神雕英雄伝(シェンディアオインシオンジュアン)」のワンシーンの舞台となっている嘉興の煙雨楼(イエンウーロウ)という建物を妻が見てみたいという。中国語圏内に数多くいる金庸ファンの中では有名な場所のようだ。金庸の小説に登場する中国の名所を紹介する「金庸地図」という本まで出版されており、いつの間にか我が家の本棚にも一冊置いてある。

 煙雨楼(イエンウーロウ)は嘉興の唯一の観光名所である南湖(ナンフー)の中央の小島に建っている。南湖は1921年に共産党の誕生が宣言された場所として知られている。煙雨楼は五代十国時代940年頃湖のほとりに建てられ、名前は唐代の詩人杜牧(とぼく)の詩にちなんでいる。どんな詩かは知らない。中国を旅していると名所旧跡の建物や各部屋に妙に趣のある名前がつけられているのに気づく。それらは漢詩の一節から引用されていることが多く、有名な人物によって書かれた額が正面に掲げられている。中国の文化人は実に風流だ。漢詩や書に造詣が深いと中国旅行が何倍も面白くなることだろう。1584年に湖の真ん中に島をつくる土木工事が実施され、翌年そこに煙雨楼が再建された。後、清朝の乾隆帝がこの眺めに魅せられて、現在世界文化遺産にも登録されている承徳(しょうとく)の避暑山荘(ひしょさんそう)に再現された。

Yanyulou 気が進まないまま妻にしぶしぶついてきたせいか、嘉興では何も感動がなかった。僕の眼にはこれといって特徴の無い町に移り、南湖や煙雨楼も特に美しい景色には思えなかった。乾隆帝は一体何に惹かれたのだろうか。もしかしたら、煙雨楼も新しく再建されたものかもしれない。あまり趣が感じられなかった。南湖の入場料は一人60人民元(900円)。中国の他の多くの中途半端な観光スポットと同じように人工的に自然を整備して無意味な施設を建設して観光客から何とかお金をとる仕組みをつくっただけに見える。妻を急かしてとっととバス停に戻り、友人夫婦のいる無錫へ向かった。

 夕方無錫に辿り着くと電話でバスの番号を教えてもらい、友人宅へ向かった。今夜から彼らのところに世話になる。友人はありがたい。彼らはもともとシンセンでのテニス仲間で、奥さんがピシッピシッとだんなをやりこめる非常にゆかいな夫婦。中心から少し離れた静かな住宅街のベニス花園と呼ばれるちょっと恥ずかしい名前の場所に住んでいた。

(蛇足)

後で調べると金庸の「神雕英雄伝」のことで勘違いしていた。煙雨楼は小説の中の登場人物全真七子の丘処機と江南七怪が飲み比べを行い、18年後に再会を誓ったレストランだと思い込んでいた。しかし、それは酔仙楼という名前のレストランだった。丘処機と郭靖が酔仙楼で出会った後に、主だった登場人物がほぼ全員集合して戦いが繰り広げられる場所が煙雨楼だ。どうりで煙雨楼の中に入ってもピンと来ないはずだ。酔仙楼が今もあるのであれば、そっちの方が見たかった。

バス(西塘→嘉興) ×2=12

バス(嘉興→無錫) 43×2=86

路線バス                         14

昼食                            16

ジュース                          6

南湖入場料   60×2=120

計                         254RMB (=3810円)

西塘その2(第19日)

  一晩明けて西塘(シータン)での2日目。中心部へ向かいチケットを購入して、お決まりの観光コースを回り始めた。

 どこの古鎮(グージェン)でも大体同じなのだが、古い町並みが残っているエリアを美観地区として設定し、観光資源とすべくその中を保存修復する。そして、そこを景区と称して町の他の地区とはっきり分けてしまう。その景区に入るためには入り口で入場チケットを購入しなければならない。ちょっと通りを散歩してみるだけ、という場合でも入場料を支払うことになる。

 このシステムを徹底させたのが鳥鎮(ウージェン)だ。大抵そのチケットにその地区内の観光ポイント(保存修復された伝統建築で、地元名士の旧宅などが多い)の入場料も含まれている。もう慣れたが、実在の町の一部を切り取ってテーマパークのような扱いをするこのシステムには違和感を覚える。

 現代都市を歩いていたら、いつの間にかタイムスリップした世界に迷い込んでしまった、なんていう旅の醍醐味を味わうことはできない。「はい、これから美しい街並みを見学しますよー!」と完全に心の準備をしてから観光しなければならない。この中国独特のシステムは古い街並みについてだけでなく、観光スポット全てに共通するということを後で知ることになる。観光資源を経済価値に置き換える手っ取り早い手法なのだろうが、他に良い方法は無いものだろうか。

 平日とはいえ日中は多くのツアーがやって来る。拡声器片手に大きな声で説明するツアコンの後ろに同じ帽子を被った30人ほどの団体がぞろぞろついて行くという典型的な中国の観光地の光景が目の前に広がる。騒がしい団体さんをやり過ごしたり、後ろの団体さんに追いつかれないように気を使いながら我々も観光スポットを巡った。

 名前は忘れたが、比較的大きなある面白い構成の住宅がある。建物の中を巡ると各部屋から思いもよらない景色が現れる。最後に「あれっ、こんなところに出てきた。」という感じで、それ程複雑ではないのに迷路のようにとても入り組んだところを歩いてきた錯覚を覚える。

 また、ふらっと入ったら、すっかり気にいってしまったお店もあった。といっても買い物に興味がないので何屋だったか覚えていないし、結局何も買っていない。ただ、割と長時間そこで過ごした。中庭が一つしかない比較的小規模な建物で、構成がとても分かりやすい。店の奥に運河に面したちょっとしたバルコニーがあり、そこに座りたくなるようなベンチが設えてある。そう、ただそのベンチでぼうーと運河を眺めていただけなのだ。心地よい空間、幸せな時間を過ごした。

Xitang44Xitang52

Xitang59

 よくあることなのか、珍しいことなのか分からないが、その日は町中至る所で学生たちがスケッチをしていた。それ程上手ではなかったので別に美術系の学生ではないのだろう。

 夕方、前の日と同じ場所で食事をしていると、運河の反対側の宿泊所らしき建物のバルコニーに見覚えのある青年がいた。シンセンでのテニス仲間の中国人だ。人目を気にしながらも、河を挟んで大声で、お互いにこの偶然に驚きながら2言3言会話を交わした。彼も友達と旅行中のようだ。この広い中国のこんな場所で偶然知り合いに会うなんて。妻はというと、ただ彼らがバルコニーまで付いている雰囲気の良い部屋に泊まっているのを羨ましがっていた。

西塘入場料                 60×2=12

昼食                            42

ジュース                           7

夕食                            48

買い物                           22

宿泊費/日                       140

計                         379RMB (=5585

西塘(第18日)

 いつものように長距離バスで蘇州から西塘(シータン)へ向かった。西塘は周荘(しゅうそう)程ではないが、水郷古鎮(運河の古村)として有名な観光スポット。上海などの大都市からツアーが押し寄せる。最近では「ミッションインポシブル3」のロケに使われたことでも有名。店のおっちゃんがトムクルーズと無理やり撮ったような記念写真を飾っているお店なんかも見かけた。

 バスで西塘に着き、水郷古鎮はどっちだろうと迷っていると、一人のおばさんが「こっち、こっち。入場料の要らない住民の出入り口に連れて行ってあげる。」と声をかけられた。なんとなくそのまま付いて行き、狭い路地を抜けて本当にただで入ってしまった。ちなみに翌日きちんと入場料を払った。その後、おばさんの家族か友人がやっている宿に案内された。場所が中心から離れており、部屋も今一つだったので宿の件は断ると、残念そうではあるが、以外にもあっさり諦めた。ちょっと申し訳ない気がしたが、おばさんと別れて2人で宿探しを始めた。幸運にも1階がカフェの良さそうな部屋を見つけた。値段も140RMB/泊と手ごろ、「やっぱり一番安いところで580 RMB/泊という鳥鎮(ウジェン)はおかしい!」と改めて思い出した。

 チェックインを済ませて部屋で一息して、街へくり出す。うーん、美しい町並みだ。実は紹興(しょうこう)、鳥鎮(ウジェン)、南潯(ナンシュン)と既に江南(こうなん)地方の水郷の古鎮(グージェン、古村)を3つも巡ったので西塘(シータン)は来なくてもいいかなと思っていたのだが、妻の強い希望でやってきたのだ。妻の意見に従って良かった。町並みもとても良い感じで保存されている。水郷の古鎮を1箇所だけ訪れるのならここ西塘(シータン)がお勧めだ。良い意味で観光地慣れしている。地元も町自体が自分たちの大事な資産だと認識しているようで、他の村と比べてとても清潔。おじさんがボートに乗って運河を清掃している姿もどことなく趣がある。鳥鎮(ウジェン)の町はとても不健全に僕の目に映ったが、ここは健全に観光地化、商業化が進んでいる気がする。観光と全く無関係に暮らしている人たちも沢山いるし、そういう人たちは普通に我々観光客を無視してくれる。また、観光に関わっている人たちは皆で工夫して、楽しんでいるようにすら感じた。夜になると素人の京劇の上演なども催されていた。ただし、一大観光地なので週末や祝日は恐ろしいことになっていることだろう。橋の上からの景色は格別で、そこを通る度についつい同じアングルの写真をとってしまう。

Img_5421 Xitang06 Xitang14  夕方になると、運河沿いの屋外テーブルで食事をした。お店の人お勧めのカボチャを軽く揚げて塩をふった料理はご飯にも、ビールにも合い、最高。個人的には今まで食べたカボチャ料理の中で一番好きかもしれない。気取らない運河沿いのレストランでビールを片手にゆっくり日が暮れていく様子を感じる、旅行者として理想的な時間を過ごしている。

バス(蘇州→西塘) 32×2=64

三輪車           2

昼食                            36

夕食                            46

市内バス                          2

コーヒー                          40

宿泊費/日                      140

計                          330RMB (=4950円)

環秀山荘、留園、盤門(第17日)

 「環秀山荘(フアンシウシャンジュアン)」は地球の歩き方(’06-’07)には載っていないが世界文化遺産にも登録されている庭園。景徳路(ジンデァールー)という大通りに面しているが、企業の敷地内だったので辿り着くのに苦労した。なかなか見つからず途中イライラして妻との会話が無くなり、一時険悪な雰囲気が続いた。何とかたどり着けて本当に良かった。

Huanxiushanzhuang05 Huanxiushanzhuang06 Huanxiushanzhuang13

 比較的小規模だが、いやかえって小規模だから庭園全体の雰囲気を感じとることができた気がする。建物と築山と池といった全体の構成というか関係性がとても気持ちよかった。緻密に計算されて造られたのだろう。「獅子林(シーズリン)」のように築山の中を探検して頂上に到達すると、そのまま横の建物の上階へと入ることができる。庭と建物が独立しているのではなく、お互いに3次元的に日常として繋がっている。当時のひと達も建物と庭を自然に行き来して楽しんでいたのだろう。例えば屋内にいる一人が庭を歩いているもう一人と会話をしている姿なんかを想像する。時代劇に出てきそうな秀才の兄とちょっとお転婆な妹との楽しげな会話シーンなんかを頭に浮かべた。

 昼食後は最後の蘇州四大名園の一つ「留園(りゅうえん)」を訪れた。もともと明代に個人庭園としてつくられ、東園と呼ばれた。 清の嘉慶年間に改修されて園主の姓にちなんで劉園と呼ばれ、さらに光緒年間に改築されて現在の留園に改名された。蘇州の各名園の長所を取り入れているとのこと。4つの部分に分かれており、それぞれ建築、山水、山林、田園の趣を持つ。清代の様式を伝えているこの庭園は四大名園のなかでは一番日本人の感覚に合うのではないだろうか。巧みな構成によるのだろう、変化に富んだ景観が歩いていて楽しい。自然に「良い庭園だな」と感じた。透かし窓を通してジグザグの回廊が見える、蛇か龍を想像させる塀の意匠など遊び心が満載だ。床にもカエルやツルのような具象パターンを見つけることができる。当時の衣装をまとったひとが楽器演奏をしてくれるにくい演出もある。蘇州で訪れた多くの庭園のなかでもこの「環秀山荘(フアンシウシャンジュアン)」と「留園(りゅうえん)」が特に気品高い気がする。当時の知識人の心意気のようなものを感じる。

Liuyuan02_2 Liuyuan07 Liuyuan10

 夕方時間が余ったので盤門(ばんもん)という観光スポットへ行ってみた。盤門は紀元前508年呉王の命を受けて伍子胥(ごししょ、ウーズシュ)が蘇州城をつくった際の水門八門のうちの一つ。現在の橋は清代1872年に建造されたもの。古城遺跡公園として整備されているが、個人的にはわざわざ入場料を払って見るほどの場所ではない気がする。ただ、公園の中に伍子胥を祀った場所を偶然に見つけたことは収穫だった。越王「勾践」(えつおう こうせん、ゴウジエン)がつくったとあり、非常に興味深い。自分を散々苦しめた敵国の宰相伍子胥に対して勾践が敬意を払っていたことになる。敵味方関係なく人材を重んじる懐の深い中国人のイメージに合致するエピソードだ。

環秀山荘入場料               15×2=

留園入場料                  0×2=

盤門入場料                  25×2=

昼食                            6

夕食                           111

市内バス                          8

宿泊費/日                       358

計                         703RMB (=10545円)

(おまけ)

 伍子胥(ごししょ、ウーズシュ)は復讐に生涯をささげた激情の人。その激情ゆえに復讐も果たし、多大な功績を残したが、同時に主君に疎まれて最後は死を命ぜられた。伍子胥はもともと血の気の濃い人物が多いと言われる楚人(そひと)。父と兄を楚の平王に殺され呉の国に逃れた。そこで公子光(後の呉王闔閭)に仕えてクーデターに協力し、光の即位に大きく貢献した。呉に逃れて14年後、呉王闔閭(こうりょ)とともに楚の都を陥落させたが、既に平王は死んでいた。そこで伍子胥は平王の墓を暴き、死体を鞭打って恨みを晴らした。これが「死屍に鞭打つ(ししにむちうつ)」の語源。

越軍との戦がもとで闔閭が亡くなると息子の夫差(ふさ、フーチャイ)が即位した。伍子胥の補佐のもと夫差はみごと越軍を破り父の復讐を果たした。そのとき伍子胥は越王勾践(こうせん、ゴウジエン)を殺すことを進言したが、聞き入られず、夫差は勾践を捕らえて越を属国とすることで許してしまった。

 その後、夫差の中原への大規模出兵の決定に反対した伍子胥は死を命ぜられる。伍子胥は「自分が死んだら目玉をくりぬいて城門に置け、越軍が攻め込んでくる様を見届けてやる!」と言い残して自ら首をはねた。しかしながら、願いは叶わず、死体は銭塘江に捨てられた。有名な銭塘江の逆流現象は伍子胥の怨みから発生するという言い伝えもある。数年後、伍子胥の予言通り呉の隙を突いた越によって呉は滅ぼされて夫差も捕らえられた。夫差は「あの世で伍子胥に合わせる顔がない。」と顔を覆いながら死んでいったと言われている。

拙政園、獅子林、耦園(第16日)

 「獅子林(ししりん)」は元の時代(1271-1368)の名園。著名な画家倪雲林(ニ・ユンリン)が構想して描いた「獅子林図巻」によって造られた。太湖石(たいこいし)と呼ばれる穴やくぼみが多い岩を積み上げた築山が特徴的。この太湖石の景観が我々日本人の間でも非常に中国庭園のイメージに一致するのではないだろうか。

 庭の風景としての美しさという意味ではちょっと僕には理解しがたい。しかし、中が3次元的迷路になっているのは非常に面白い。色々なことを考える人がいるものだ。一体どうやってつくったのだろう。緻密に計算して積み上げたのだろうか、それとも今の中国の建設現場のように行き当たりばったりだったのだろうか。

Shizilin06Shizilin08Shizilin05  ただ鑑賞するだけでなく、実際に中を歩きまわることができる体験型庭園というのはとても面白い。また、石の形も牛、鳥、亀といった色々な動物になぞらえており、それらを探す楽しみもある。遊び心が満載だ。子供たちが行ったり来たりはしゃぎまわっている。実際に探検してみると、腰をかがめて洞窟を抜けると山の上に出て視界がぱっと広がったり、様々な角度の景色を楽しむことができる。名園を鑑賞するという高尚な態度を捨てて、単純に仲間と迷路遊びをすると楽しめる庭園だ。

Zhuozhengyuan16_2Zhuozhengyuan07Zhuozhengyuan02  蘇州四大名園の一つ「拙政園(せっせいえん)」は明代の御史(ぎょし、官吏の不正を監察する役人)王献臣(ワン・シエンチェン)によって造られた個人庭園。5.2ヘクタールある蘇州最大の古典園林。拙政という名は西晋時代を代表する文人潘岳(パン・ユエ)の「閉居賦」の一節、「拙者之為政(愚か者が政治を行っている)」から採っている。庭園の1/3を占める水を中心として構成されている。とにかく広くて庭園というよりは公園という印 象で、少々趣に欠ける。残っている建物は清代後期の形式。個々の建築では船の形をした香洲の意匠が面白い。また、ステンドグラスが入った洋風の雰囲気をもつ部屋もなかなかだ。

Ouyuan01  「耦園(オウユエン)」はこの日3つ目に訪れた庭園。前日にも感じたことだが、一日3つの庭園をまわるのは限界のようだ。本当なら2つで止めておくべきだろう。3つ目ともなると、疲れてどんな庭だったか記憶にあまり残っていない。非常にきれいに庭を切り取ったピクチャーウインドウがあったことだけが印象に残っている。

拙政園入場料                 70×2=140

獅子林入場料                  30×2=60

耦園入場料                   20×2=

昼食                             

アイス・ジュース                      24

夕食                            147

コーヒー                           56

タクシー                           18

市内バス                            2

宿泊費/日                        358

計                           854RMB (=12810円)

滄波亭(第15日)

 “江南園林甲天下,蘇州園林甲江南”(江南地方の園林は天下一,蘇州の園林は江南一)と言われるように中国で園林といえば蘇州、4大名園と言われる「滄波亭(ツァンランティン)」「獅子林(シーズリン)」「拙政園(ジュオジェンユエン)」「留園(リウユエン)」をはじめ6つの庭園が世界文化遺産に指定されている。建物のつくり方はわりと細かく決まりごとがあったため、当時のひとたちは園林造りに創意と工夫を凝らしていたと言われている。

 時代の古い順に4大名園を中心に回ることにした。まずは北宋時代(960-1126)の詩人蘇舜欽(そ・しゅんきん)がつくった「滄波亭(ツァンランティン)」を訪れた。どうやら大きな池の向こう側の小さな森が庭園になっているようだ。静かな周辺環境がゆっくりとした時間の流れを感じさせる。池に架かった橋を渡ってアプローチするのだが、なんとなく心が穏やかになる。

 築山の周囲の廊下が各建物や東屋をつなぐ構成になっている。それぞれのスポットには‘観魚処’ ‘閑吟亭’ ‘聞妙香室’ ‘看山楼’ ‘清香館’・・・と乙な名前がついており、扁額(へんがく)が掛かっていたりする。「魚を観る処」「詩を吟ずる亭」「花の香りを楽しむ室」「山を観る楼」「清い香りの館」・・・日本語では説明的でうまくいかない。英語に直すと字数が長くなって成り立たない。漢字の力は凄い。たった3文字で簡潔かつ風流な名前ができてしまう。

Canlangting01

Canlangting20 Canlangting10 廊下は塀を挟んで両側が通路となっており、片方は池に面して、もう片方は築山に面している。塀のどちらを歩くかで全く異なる世界が広がる。塀には透かし窓が連続しているためにどちらを歩いても逆側の気配を感じることができる。‘滄波亭’とは築山の頂上にある東屋を指すのだが、特にここからの眺めが良いというわけでもない。僕らが訪れたときには中国人2人がそこでお弁当を開いてくつろいでいた。清の時代に康熙帝(こうきてい)が再建したものだが、もともとは水辺にあったらしい。奥の‘看山楼’下部岩の中には洞窟のような部屋があり、中は涼しく、そこから覗く外の景色が面白い。隠れ処的空間というのはなぜか魅かれる。全体として、自然に近い形の庭園の中に品良く、かつ趣向を凝らして建物が散りばめてある。素直に「いいところだな」と感じる。

Yiyuan05

Wangshiyuan08

Yiyuan07

 

その後池を中心とした庭園の「網師園(WangshiYuan)」と「恰園(YiYuan)」を訪れた。床パターンやバラエティに富んだ透かし窓など細部の意匠に注目してみても面白い。

滄波亭入場料                  20×2=40

網師園入場料               0×2=

恰園入場料                   15×2=30

昼食                             11

コーヒー                           50

夕食                             96

買物                             

宿泊費/日                        358

計                           650RMB (=9750円)

蘇州へ(第14日)

 「上有天堂、下有蘇杭。」(天上には極楽が、地上には蘇州と杭州がある。)と言われるくらい蘇州(そしゅう、スージョウ)も杭州(こうしゅう、ハンジョウ)と並んで昔から美しい都として名高い。我々も中国式庭園(園林)を味わいに上海から長距離バスで蘇州へやって来た。バスターミナルは中心から少し外れた場所にある。

 いつものように群がるタクシーの客引きから逃れてまず地図を買う。さすが中国、この地図も道端で偽者を売っている。カラーコピーをしただけのもので、文字や数字がクリアでない場合が多い。通常4-5元の地図を1-2元で売っている。一部あたりの彼らの儲けも1-2元(15 -30円)といったところだろう。たった1-2元のためにわざわざ法を犯して偽者を売る感覚が不思議だが、現金を稼ぐ手っ取り早い方法で、しかも彼らは違法行為という認識もないのかもしれない。見難いことと偽者を買う行為自体が好きでないので売店で本物の町の地図を手に入れる。自分達の居場所と方角を地図上で確認して市内バスの停留所を探す。そこでホテルの近くへ向かうバスの番号を調べて乗り込む。知らない町に着くとまずそこまでの作業に意外と手間取るが、タクシーには乗らない。公共交通で安く済ませる目的もあるが、土地勘のない場所でタクシーに乗ると本当に正しい方向に向かっているのか不安になる。また、タクシーだと速すぎて街がどうなっているのか全く把握できない。あと世界中の街から車を少しでも減らしたいという希望を持っている僕は公共交通を使うのを基本としている。有効な手段ではないが気持ちの問題。それに付合う妻はちょっと気の毒かもしれない。

 上海友人宅からいつものようにeLong.comでネット予約した楽郷飯店というホテルへまず向かった。中心地の非常に便利な場所にあり、日本人出張者もよく利用するホテルらしい。ロビーは広いだけで雰囲気は今ひとつ。ちょっと古い感じがしたが、部屋はセンスよくきれいに改装されていた。予想よりかなり良かった。聞くところによると日本企業の法人契約の宿泊料金よりも安く泊まることができたようだ。

 チェックインを済ますと既に夕方なっていたので今日は中心繁華街を散歩して終わり。早めの夕食を妻が事前に調べていた蘇州三大レストランの一つで食べたが、どんなところだったか覚えていない。妻は食に対する興味が人一倍強く、僕は人一倍弱い。

地下鉄                           8

バス(上海→蘇州)             36×2=72

市内バス                          2

夕食                           112

買物                            39

宿泊費/日                      358

計                          591RMB (=8865円)

豫園から魯迅公園へ(第13日)

 豫園(よえん)は外灘(ばんど)と並んで上海の観光客が必ず来る場所の一つ。明代の江南式庭園で、豫園の「豫」は愉を示し、「楽しい園」という意味。周囲は豫園商城と呼ばれる一大ショッピングエリアとなっており、土産物屋や飲食店が軒を連ねている。労働節で相当の人手が予想されるし、庭園は蘇州でたっぷり見る予定だったので豫園方面へ行くのは気が進まなかったが、姪っ子たちへのお土産の判子をつくるためにやって来た。

 最初に観光地でない普通の通りでまず判子を売っている店を何軒か覗いた。およその値段を知る下調べも兼ねていた。色々な石の判子があるが、子供用なのであまり渋い石で作っても喜ばないだろうと考えて透明な中に色の入った猫目石で探すことにした。値段は一つ110~150RMBくらいだったが、あまり気に入る石が見つからない。

 豫園に近づくと、思った通り人・人・人。酔ってめまいがしそうだ。通りの両側に小さな店がびっしり並んでおり、観光客にさかんに声をかけてくる。僕は体質的に客引きがきらいで声をかけられるとそこから逃げ出したくなる。妻の後ろに金魚の糞のようについて行きながら雑居ビルの中へと入った。ここも店がびっしり並び、人も多いのだが、外の通りよりはゆっくり品物を見る余裕を持てる雰囲気だ。ある店で良さそうな判子の石を見つけたので値段を聞いてみると一つ70RMBと言う。事前に聞いたいくつかの店より安かったのでそこで買うことにした。妻の弟夫婦の娘たち用に2つ、僕の姉夫婦の娘たち用に2つ、合計4つ石を選んでそれぞれの名前を彫る字体を決めた。判子の字が彫り終わるまで小一時間かかる。

 周囲の建物はコンクリートとレンガで造った表面に伝統の様式意匠を貼り付けているだけの安っぽいもので、雰囲気は今ひとつ。にぎわった雰囲気を味わうか買物でもしないならそれ程来る価値はない場所だ。しばらくして判子を注文した店が入っている雑居ビルに戻ったが、店が見つからない。同じような店が沢山あり注意深く記憶しておかないともとの店に辿り着けない。ビル内を3周ほどしてようやく見つけた。4つ分280RMB支払って判子を受け取った。最初にいくつかみた店より安かったためつい値切るのを忘れた。後で落着いて考えると4つ買ったのだし、値切れば絶対もっと安くなっただろう。一つ50RMBにはなったのでは・・・失敗した。ちょっと悔しいが、あまり安いお土産というのもつまらないし、と自分たちを納得させた。

 人だかりから聞き覚えのある曲が聞こえてきた。金庸原作ドラマの主題歌だ、妻が真っ先に気づいた。かなりうまい。声も非常に似ている気がする。本物の歌手かもしれない。知っている歌に偶然出会ってちょっと嬉しい。妻が凝りだしたのに合わせて僕も時代劇テレビドラマを見出したのだが、海外でその国のテレビや歌などを知っていると生活が少し楽しくなる。少しだけ聞いて、豫園を後にした。

 上海出張が多かった頃の記憶によると魯迅(ろじん)公園界隈の昔の疎開地がとても良い雰囲気だった。豫園から四川中路を北へ上り蘇州河を越えたあと一本東の細い通りを更に北上して魯迅公園を目指して歩いた。蘇州河を超えたあたりから混沌とした上海のイメージを残す光景に街の雰囲気が変わった。中心部は普通の大都会で珍しくもないが、この辺りで上海らしさを感じることができる光景に出会えて良かった。上海に来た甲斐があったというものだ。魯迅公園周辺の通りもやはり風情があって散歩するには最適だ。

 魯迅公園からバスに乗って新天地の近くの上海博物館のミュージアムショップへ再度行った。前回見て気になっていたTシャツと筆箱を買った。今回はめずらしく妻は何も買わずに僕だけが買物をした。

地下鉄                           6

判子   0×=2

コーヒー                          64

バス                             8

買物                            78

計                         436RMB (=6540円)

上海博物館(第12日)

 今日は丸一日博物館で過ごすと決めた。上海博物館は人民公園の南に位置し、床面積38,000㎡を有するかなり大規模な近代施設。中はテーマごとに分かれており、青銅器、彫刻、陶磁器、書、絵画、玉、貨幣、印、家具、民族工芸と多岐に渡っている。特に青銅器、陶磁器、書画のコレクションは世界的に有名。建築自体もそれなりの評価を得ているようだが、外観は現代建築としてはあまりほめられたデザインとは言えないと思う。全体的に中国の大規模公共施設に共通する意図的と思われる威圧的なデザインである。下部が方形、上部が円形の構成となっているが、これは天は円く、地は方形であるという「天円地方」と呼ばれる古代中国の宇宙観を示している。横から見た姿は青銅器の「鼎(かなえ)」がイメージされているそうだ。ただ、内部は中央の吹き抜けの周囲に各展示室が広がるという分かり易いよくできた構成となっている。

 入場料は20RMB(300円)と安かったが説明ヘッドホンが40RMB(600円)と少し高かった。というより中国語、英語、日本語でそれぞれ値段が違うというのが気に入らなかった。もちろん日本語が一番高い。ただ、ヘッドホンのおかげで展示が理解しやすく十分楽しむことができたのも事実。展示はかなり充実しておりテーマごとに10程に分かれている。中でも個人的に興味のある陶磁器の展示を中心に回った。陶磁器の展示はよくできた構成で、各時代の流れが理解しやすかった。当然のことであるが、工芸品と時代背景は密接に関係している。唐代や清代の繁栄して安定した時代には質の高い陶磁器が数多くつくられている。

 唐代といえば唐三彩(とうさんさい)が有名だが、白・緑・褐色の三色の調和が素晴らしい。俑(よう)と呼ばれる副葬品が多いが、写真でよく見かける三彩馬は予想より大型でかなり迫力がある。釉薬が流れて互いの色が混じったところに妖艶な美しさがある。完全に意図してできたわけではない色の混じり具合が良いのだろうか。やはり装飾に緑色が入るとなんとなく中国的な雰囲気になる。

 明代の官窯(かんよう)を経て、康熙帝(こうきてい)、雍正帝(ようせいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)清朝最盛期に景徳鎮(けいとくちん)陶磁器が最高水準に達したと言われている。もちろん現在も景徳鎮は陶磁器の代名詞、妻も景徳鎮に行きたいとよく騒いでいる。博物館にもその時代のものが最も多く展示されている。白地に青が美しい青花(せいか)磁器はいかにも中国陶磁器の気品を感じさせる。陶磁器の裏側には各時代が刻印されている。清朝盛時の後半にあたる乾隆帝の頃にもなると何でもありの実験的で派手な作品が多い。個人的には康熙帝と雍正帝の頃のものの方が上品で好きだ。

 青銅器館では越王(えつおう)勾践(こうせん)の剣を探したが、見つからなかった。中国のどこかの博物館に収蔵されていると聞いた覚えがあるが、ここではないようだ。越王勾践が使用していたと言われる青銅剣が1965年出土されている。発掘当初錆びが全く無く、2千数百年を経た現在でも紙を裁断できる切れ味を保持していたことで話題になったそうだ。いつか本物を見てみたい。

 途中お茶休憩しただけで昼食も食べずに本当に朝から夕方まで丸一日いたのだが、展示面積が非常に広くて全てはとても観きれなかった。なかなか内容のある博物館なのでまた今度改めて来たい。

地下鉄                           12

博物館                (20+40)×2=120

お茶                             60

コーヒー                          67

計                         259RMB (=3885円)

黒檀茶盤(第11日)

 妻は中国茶に凝っており、シンセンでも茶葉屋さんが沢山入っている建設路にある三島中心や茶葉世界に良く出かけていた。なじみの店まであり、店のおばちゃんとも仲良く話しているようだ。なかなかたくましい。

妻のせいかは知らないが、そのお店は日本人や韓国人の固定客が多いそうだ。中国で買い物をするときには基本的に値段交渉が必要。値段を聞くと大抵最初にものすごくふっかけてくる。それは外国人に対してはなおさらだ。言い値の半額くらいで交渉成立しても相場よりまだまだ高いなんてことがよくある。このやりとり自体を楽しむ人もいるが、僕のようにいちいち交渉するのが非常に面倒だと感じる日本人も多いようだ。そのお店では最初の言い値が相場に近い。最終的に多少高かったとしても、最初にとんでもない値段を聞いたときのうんざり感よりはましということなのだろう。長期的に商売をするのであればこのやり方の方が賢いと思うのだが、中国では短期的視点で商売していると感じることが実に多い。ただ、最近はかなり変わってきたと思う。

家には竹製の茶盤(チャーバン)が既にあるのだが、シンセンではあまり売っていない、黒檀(こくたん)製がほしいという。「そんな荷物になるものどうするの。旅行中自分で運んで持って帰るのなら買えば。」と僕が言うと「自分で運ぶから買う。」と妻が答える。どうやら、本気らしい。感心するやら、あきれるやら。友人の奥さんに教えてもらった近所のお茶葉の卸が集まっている場所へ行ってみた。そこは中山公園の南西方向、中山路(ジョンシャンルー)と屏南路(ピンナンルー)の交差点付近にある。いかにもという感じの雑居ビルが2棟建っている。お茶関連の店がひしめくビル内をくまなく歩く。

妻の買い物に対するエネルギーには敬服する。僕にはまねできない。数十軒あるお店を全てチェックしながら気になる店を覗く。この時点で既に2周している。時々値段を聞いて相場を把握しているようだ。次にほしい茶盤(チャーバン)に近い商品を置いている店で「こんなのはあるか。」「あんなのはあるか。」と質問しながらもう一周。お店のひとが奥から色々な茶盤を出してきてくれる。小さいサイズでシンプルな形状の黒檀の茶盤を探していたのだが、それは台湾製の去年か一昨年の型だというところまで突き止めた。ただ、ほとんどのお店では既に扱っていない。同じ台湾の企業の今年のデザインは派手すぎて今ひとつ。お店のひとは決まって「今年のデザインの方が良い。」と店に置いてある商品を薦める。「どっちのデザインが良いかは、あなたではなくて僕らが決める。」と心の中でつぶやく。お店によっては全くとんちんかんな商品を持ってきて一所懸命説明し始める。「僕らの言っていること聞いていた?それは僕らが買いたいものではなくて、あなたが売りたいものでしょう!」とつっこみたくなる。既にビルの中を何周したかわからない。不思議なことに「あれっこの店にこんな商品置いていたっけ?」ということが時々ある。見ているようで見ていない。最終的に妻のおめがねに適う茶盤を見つけて購入した。あまり値引き交渉には応じてくれなかったが割と安かったと思う。小さいサイズの黒檀の茶盤が220RMBだが、同じものが新天地で確か480RMBだった。黒檀なのでやはりずっしり重く高級感がある。他のお店で茶托や付属道具も購入した。

 

この日は他に中山公園内を散歩するなど近所でのんびり過ごすに留まった。友人宅に滞在していると、あくせく観光しな日も持つことができる。

茶道具                           338

夕食                             40

買物                            136

計                          514RMB (=7710円)

新天地はさらに高級に(第10日)

 今日もきのうと別の場所にあるユニクロへ行くと妻が言う。適当に良さそうな道を選びながら大きなショッピングモールがある徐家匯(シュージアフイ)方面を目指す。安化路(アンフアルー)~安西路(アンシールー)~武夷路(ウーイールー)~昭化路(ジャオフアルー)~興国路(シングオルー)~天平路(ティエンピンルー)~衡山路(ヘンシャンルー)と歩いた。興国路、天平路の辺りは閑静な住宅街でとても良い雰囲気の散歩道だ。

徐家匯(シュージアフイ)のショッピングモールでユニクロに寄ったあとは淮海路(ワイハイルー)を東へ(中心地)へ向かって歩いた。淮海路は僕とは縁の無い、妻は縁を持ちたいが持てない高級ブランドショップやおしゃれな店が並ぶ。雁蕩路(イェンダンルー)を南に下り適当なお店でアフタヌーンティーをした後にお約束の新天地(シンティエンディー)に寄ってみた。新天地は租界住宅地を保存再生して数年前に商業空間としてオープンした上海のおしゃれスポット。ちなみに建築の設計は同済大学らと共同して日本の大手設計事務所の日建設計インターナショナルが行っている。古い建物を利用した再開発として中国における最初の成功例の一つ。数年前に来たことはあったのだが、以前にも増して高級店ばかりになってしまい僕にはちょっと近寄り難くなってしまった。「こんなところで食事したいー。」という妻の言葉を軽く無視してまた別の方向へ歩きだす。

 新天地を少し北へずれたところでいい感じの小物屋を見つけた。上海博物館のミュージアムショップだ。インテリアや店内の商品の並べ方も上手だった。めずらしく僕も買いたいと思ったものが何点かあったが、博物館も見ないでミュージアムショップで買物するのも何だかいやだったので後日博物館へ行くことに決めた。「なんでミュージアムショップが街中にあるのだろう?」と不思議に思ったが、僕らも偶然ミュージアムショップを見つけて博物館に行こうと決めたのだから彼らの戦略通りなのかもしれない。

 

 夕食を友人夫婦と虹橋(ホンチアオ)の水城路(シュイチェンルー)にあるきのこ鍋屋で約束していたので、その方面へ行きそうなバスに乗り込んだ。シンセンでも何度かきのこ鍋を食べたがけっこうはまる。店内には来店した有名人の写真が所狭しと飾られていた。知っている顔を見つけると意味無くなんとなくうれしい。きのことビールで腹がはちきれそう、満足な夕食だった。

アフタヌーンティー                     58

バス                              6

夕食                            340

計                          404RMB (=6060円)

5角フェリーはまだ健在(第9日)

 上海では特に観光目的は無いのでとにかく街を歩くことにした。中山公園(ジョンシャン公園)から愚園路(ユーユエン路)をひたすら東の中心地へ向かった。労働節で皆帰省して上海のような大都会は普段よりひとが少ないのではないかという淡い期待はみごとに破られた。中心に近づくにつれて人の数は増えていき、南京路(ナンジン路)から外灘(ワイタン、バンド)にかけてピークに達した。やはり中国の人口をなめたらいけない、どこから湧くのだろうという位人波が途切れない。

上海一の観光スポット外灘へはもちろん上る気もせず、浦東(プードン)に渡るルートを探した。地下道を見つけたが、無意味な展示をして観光客から高額の通行料(数十元)をとるというものだったので他を探した。フェリー乗り場を見つけたが、これも観光用で高い。たしか市民の日常用の激安フェリーがあったはずだが・・・記憶と地図を頼りに歩き続けた。根っから貧乏人根性の僕と歩き続けねばならない妻は気の毒かもしれない。中山路を南に向かい相当歩いたところで発見した。運賃は5角(7.5円)、記憶は正しかった。観光地になると何でもかんでも高くなる中国にあって5角フェリーが健在なのはちょっとうれしい。結局、中山公園から地下鉄6駅分歩いたことになる。

浦東(プードン)に渡ったところにある巨大ショッピングモールへ向かい、ユニクロへ行って無事買物を済ませた。どうやら妻は今回上海ではユニクロでの買物が目的らしい。浦西(プーシー)を眺めながら食事をして地下鉄で中山公園まで帰った。黄浦江(ホアンプー・ジアン)を巨大広告ボート(企業の広告用看板を大きく掲げただけのボート)が行ったり来たりしている。以前はこんなもの無かった。確かに宣伝効果が高い。河の両岸は人で埋めつくされて皆ただ向こう岸を眺めているのだから。賢いかもしれない。中国の商業化の勢いは凄い、商売になるかもしれないと思えば何でもすぐ実行に移す。

 

 以前上海を訪れたときはシンセンと違って上海はなんて都会なのだろうと感じたのだが、今回の印象は違う。シンセンが大分都会になってきたということなのだろうか、それとも当時隣の芝生が青く見えただけなのだろうか。夕方あるスーパーで買い物をしたところ、店員がおつりを投げてよこした。5、6年前は中国で店員さんがお金やティッシュを放るというのは普通だったが、ここ数年シンセンではサービスが格段に向上してそんな光景は全く見なくなった。後で友達と話したらサービスの質は南へ行くほど良くなり北へ行くほど悪くなるという。北京より上海の方が良く、上海より広州やシンセンの方が良いということらしい。南に行くほど拝金主義の傾向が強くなると思うのだが、サービスが金になると気づいた南からサービスの質が良くなって来ているのかもしれない。ただ、現在でもものづくりに対する意識はシンセンより上海の方が高く、実際に技術や人材のレベルも上海の方がかなり上だと思う。

コーヒー                           24

ユニクロ                          589

その他買物                         45

夕食 60

地下鉄                            8

コーヒー                           70

計                          796RMB (=11940円)

上海友人宅へ(第8日)

 次はもう一つの水郷村の西塘(シータン)に向かう予定だったが、労働節の混雑が既に始まっているので止めた方が良いという宿主人のアドバイスを聞いて上海にいる友人宅へ避難することした。大学時代からの友人の彼は現在日本企業駐在員として上海に住んでいる。彼は卒業後、大手電気メーカー→地方TV局→英国留学→台湾留学→大手食品メーカーという面白い経歴の持ち主だ。台湾で中国語を勉強し始めてたった3ヶ月のときに国連を受験するアプリケーションの語学欄に英語:excellent、中国語:goodと記載した自分を売り込むことにに躊躇しない日本人離れした感覚の持ち主。奥さんの方も結婚前からの友達でハウスメーカー→英国留学→工務店という経歴を持っており、現在上海で就職活動中とのこと。

上海の長距離バスターミナルに着くと帰省ラッシュで殺人的混雑だった。一刻も早く人ごみから抜けるべく地下鉄に乗り込み友人宅のある中山(ジョンシャン)公園エリアへと向かった。中山公園の中山とは革命の父孫文(そんぶん)のことだが、中国ではどの町に行っても中山公園がある印象がある。僕が知っているだけでも北京、上海、青島、台北にある。また、中国の都市では人民路、解放路、建設路といった同じ名前の道路をよく見かける。どの町に行っても同じ名前の公園と同じ名前の通りがあるという不思議な感覚だ。

 大きな公園と地下鉄駅、そして大規模ショッピングモールもあって住むにはかなり便利な場所のようだ、ちょっとした高級住宅地なのだろう。夕方に買い物帰りの奥さんと合流して高層マンション内の彼らの自宅へ向かった。リビングは広く、中山公園が見渡せて気持ちよい。また、とても清潔だ、さすが日本人。海外に来ると日本人ってなんて清潔なのだろうと感じる。実際部屋をきれいに使うので中国人の家主も中国人よりもむしろ日本人に部屋を貸したがる。ベッドルームを一室我々のために提供してくれた。今まででいやこの旅で一番の高級ホテルと言えるもしれない。

 夜は友人夫婦とちょっとしゃれたレストランで食事をした。高層マンションの眺めの良い一室&しゃれたレストラン、「うーんこれが日本企業の上海駐在員の生活かー」などとステレオタイプ的発想に浸っていた。自由業の貧乏夫婦の我々にはちょっと羨ましいが「こういう生活がしたいか?」と言われればそうでもない。複雑な中年男心。

 滞在中の彼らとのおしゃべりは非常に楽しかった。夜中に議論が白熱したりもした。僕もひとを追い詰めるような話し方をする悪いくせがあるが、彼は豊富な知識と論理的思考で僕より更に鋭く攻撃的だ。議論になると彼には全くかなわない。鳥鎮(ウージェン)の開発を「不健康だ」という表現をした僕に対して「住民と観光客の収入比が数十倍以上という中国の現状で極端な観光化が進むのは当然、外の人間が不健康な開発だなどと言う資格は無い!」とばっさり。その通りではあるが、僕の印象としての不健康さというのはどうしてもぬぐえない。開発の主導権を村人は持っていない気がする。政府または開発業者が強引に進めており、村人はやらされているだけでうまく利益も還元されていないように感じるのだ。その後彼が指摘したように一番のアンバランスは住民に対する訪れる観光客の人数比だろう。鳥鎮へは上海や杭州といった大都市から毎日何十台というツアーバスがやってきて住人の数十倍の観光客が街に溢れている。そこに正常な村の状態を望む方に無理がある。この爆発的な観光ブームは経済的に余裕ができた中国人が一挙に増えたからだが、他にも理由がある。中国では自由な観光がしにくく、ほとんどの人がツアーに参加する。従って目的地及び観光の仕方が極端に偏る。自分は何に興味があってどこへ行こうかというのではなくて何のツアーに参加しようかという選択肢に縛られているように思える。このツアー中心主義が極端な観光開発を促すのか、開発がツアーを強いるのか?

三輪タクシー                         5

バス(南潯→上海)               39×2=78

地下鉄                             8

昼食   38

買い物                           205

コーヒー                           24

計                          358RMB (=5370円)

かつての富豪の町、南潯(第7日)

鳥鎮(ウジェン)は古鎮(旧市街のこと)以外何もない町だったが、南潯(ナンシュン)は繁華街もある普通の現代の町だ。バスの運転手に古鎮への行き方を教えてもらい、バックパックを背負ってとぼとぼ歩き出した。思ったより遠くて疲れたが無事古鎮エリアに入った。妻が前もって調べていた“留蔭廬(リュウインルゥ)”という古い民家を改装したところに泊まった。一泊150RMB(2250円)、安心する響きの値段だ、やっぱり鳥鎮に泊まらなくて良かった。さっそく主人がお茶を入れてくれて雰囲気が良い中庭でしばしおしゃべり。オーナーは数年前に脱サラしてこの家を買い取って宿泊施設に改装したそうだ。なかなか先見の明がある。現在中国は空前の観光ブーム、古鎮をめぐる旅も流行っている。主人によると鳥鎮は北京オリンピックで集まった外国人観光客を連れてくることを狙っているらしい。「鳥鎮のような変な開発はいずれ淘汰される」と話していた。僕は逆に5年後か10年後に一体どうなっているのかをまた来てこの目で確かめたい。シャワーは快適とは言えないが部屋にも伝統家具の花彫床(透かし彫りのあるベッド)が備えてあり、結構満足。

Nanxun36_2 Nanxun37_2 Nanxun21 Nanxun10

南潯は明清朝時代にシルク産業で巨万の富を築いた富豪が軒を連ねていた。具体的金額は覚えていないが、●●以上の資産を持つ家を“象” 、▲▲以上の資産を持つ家を“牛”という呼称があった。「四象八牛」という表現があり、南潯には8軒の大金持ちと4軒の超大金持ちがいたということ。中でも屈指の大邸宅の張石銘(ジャン・シーミン)旧邸などは敷地面積4000㎡、5つの中庭と150にのぼる部屋を有している。当時、上海のかなりの不動産も南潯の富豪が所有していたという。しかし、日本の紡績業が栄えると、シルク産業と共に街も衰えていったそうだ。

 小雨の中かつての富豪の邸宅などを見学しながら街をのんびり散歩した。雨の景色が水郷の街がよく合う。かなり成金趣味の邸宅もあるが、前庭、ホール、中庭、ホール、後庭と続く京町家を大きくしたような基本構成は単純明快な合理的プランであり、快適な居住環境を提供している。街はそれほど大きくないが居心地がよいのでもう一泊することにした。

昼食                      40

南潯入場料           60×2=120

三輪タクシー                  4

宿泊費/日                 150

計                    314RMB (=4710円)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »