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2018年5月

京大立て看板強制撤去について

 京都大学が吉田キャンパスの周囲に並んだ立て看板を強制撤去した。景観条例に違反するとして京都市から指導をうけてのことのようだ。表現の自由VS景観という構図で議論されるが、僕は純粋に景観の問題だと捉える。

 果たして立て看板がなくなって景観が向上したのだろうか。ただ、淋しい通りになってしまっただけではないのだろうか。実際に現場で立て看板がある場合とない場合のどちらが景観上好ましいかを検証した上での決定なのだろうか。それとも、規制の条項とただ照らし合わせただけなのだろうか。景観をよくすることが大事なのか、それとも条文を守ることが重要なのか。容易に陥りやすい落とし穴があるように思える。本末転倒だけは避けなければならない。

 そもそも良い景観とは何だろうか。とても難しい繊細な問題だと思う。建物や塀などの人工物の景観を考える場合、まず2つの対策が思い浮かぶ。一つは、周囲と調和させること。もう一つは素材を吟味して形や色を整え美しくすること。調和とは?美しさとは?どちらも簡単な答えがあるわけではない。少なくとも条例の文言だけでそれを解決できるとは到底思われない。

 景観を考える上で前述の2点の他にもう一つ考えなければならないことがあると思う。広辞苑の景観の蘭を読むと「自然と人間界のことが入りまじっている現実のさま」とある。また京都市発行の冊子『京都の景観』の中に「京都の景観は、自然や時の流れとともに人の営みや暮らしによりかたちづくられてきました」という記載がある。そう、景観には我々人間が欠かせない。町並みに人々の活動や個性がにじみ出ると魅力的な景観が形成されると思う。露地裏の植木鉢、ベランダの布団干し、道路にはみ出た八百屋のダンボール箱、道路に張りだしたカフェテラス、どれもがとても魅力的。場合によってはルールからちょっとはみ出しているかもしれないが、それらを全て厳密に取り締まっては町の魅力や活力が半減する。ルールを少し緩くするという知恵を働かせることもできる。ただきれいな建物が整然と並んだよそよそしい町には何の魅力も感じない。「死んだ景観」と呼べるかもしれない。吉田キャンパスの立て看板は京大生の活動や個性が街ににじみ出たものだと思う。これこそが守るべき景観とは考えることができないのだろうか。

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