建築

原美術館

 ちょうど展示替えの休館日に当たるなど過去2度も入口まで来て引き返すという悔しい思いをしたここ原美術館にやっと入ることができた。

 元々実業家原邦造の邸宅として1938年に建てられた洋館を、現代アートを展示する美術館として1979年に開館。建物は東西に長く緩やかな円弧を描いた平面形状をしている。住宅だった頃を想像しながら館内を巡った。建物の南北に庭が広がり、さぞ気持ちよく日々を過ごしていたことだろう。各部屋には印象的な庭の風景を切り取る大きなスチール窓がある。12月だが、思いがけず庭の紅葉も楽しむことができた。半円状の1階のサンルームは、庭に囲まれた素敵な場所。アフタヌーンティーでも楽しんでいた光景を想像する。窓台に腰かけてぼ~と庭を眺めて時間を忘れそうだ。階段の踊り場につながる室内バルコニーから吹抜けのある部屋や3階の小部屋へと続くR階段など、家中遊び心のある楽しい場所も随所に散りばめられている。

 とても残念だが、2020年12月末に閉館予定。それまでに東京へ行く機会があれば、もう一度行ってみよう。

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建築名:原美術館

竣工年:1938

設計者:渡辺仁

所在地:東京都品川区

入館料:1100円

正倉院

 想像していたより大きく圧倒的な存在感を発する建築物。直系60㎝の束柱40本で持ち上げられた高床式倉庫で、間口33m、奥行9.4m、総高14m、床下2.7m。北倉、中倉、南倉の3つの倉庫で構成され、本瓦葺き寄棟造の屋根で覆われた堂々たる姿をしている。軒の出は4mほどある。北倉と南倉は、三角材(校木)を井桁に組み上げた校倉造りで、中倉は正面と背面に厚い板をはめた板倉造り。見ることはできないが、内部は2階になっている。束柱の上に渡された台輪が1.8m外へ張り出しており、特徴的な意匠をつくっている。柱に巻いた鉄帯や、台輪の端部にかぶせた銅板は、後世の修理時に加えられたもの。

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 正倉院は1200年以上にわたって東大寺ゆかりの宝物を保管してきた。端正で力強い外観から、“宝物を保管する”ということだけをひたすら考えた当時の人たちの思いを感じる。迷いがない。この建物には地面から扉へアクセスする階段すら存在しない。

 平日の10時から15時まで無料で一般公開している。少し離れた正面からだけしか見ることができないのがちょっと残念。

建築名:正倉院正倉

竣工年:8世紀(奈良時代)

所在地:奈良県奈良市

拝観料:無料

参照文献:正倉院パンフレット、日本建築の形Ⅰ/斎藤裕

庫裏内住宅のリノベーション

 201712月に竣工した庫裏内住宅のリノベーションについて説明したいと思う。

 築40-50年のお寺の庫裏内に以前改装して設けたLDK及び玄関スペースを再度改装して快適な生活空間に生まれ変わらせるというもの。解決すべき問題点は以下3点。①暗い ②寒い ③モノが溢れる。

 ①は唯一の採光面である北側隣地境界の塀が迫っていることが原因。これに対してはハイサイドライト(高窓)を設けて上部からの採光を確保した。また塀を白く塗装することにより反射光を室内に取り入れる工夫もしている。②は古い木造建物に共通の断熱性と気密性の不足による。そもそもこの建物は庫裏なので玄関エリアには煙出しが設けられており、直接外気と繋がっている。このおかげで夏場は涼しく過ごすことができるが、冬場はかなり寒い。そこで冬場暖かく過ごせる場所をLDKに絞ることにした。LDKの床、壁、天井に断熱材を充填し、窓ガラスは全て複層とした。木製扉にも断熱材を充填している。また、断熱性能に優れたポリカーボネートで間仕切壁を構成することにより玄関エリアへの採光も同時に確保している。③については御施主様にモノの整理をしてもらうことが前提だが、収納できるスペースをあちらこちらに設けている。玄関倉庫と下足入れの他、収納棚板設置箇所が6ヶ所。更にキッチン背面収納、吊戸棚、床下収納を設けている。

 その他デッキを敷くことにより狭い屋外隙間空間を積極的に生活にとりいれる工夫をしている。このデッキスペースが将来子どもの遊び場になることも期待している。ちょっとした遊び心で、御施主さんが飼育されている熱帯魚がきれいに見えるように水槽に合わせて大工さんに枠を作ってもらったりもした。

 工務店さんもいい仕事をしてくれ、お施主さんご家族にも喜んで頂き、楽しく仕事をすることができた。

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http://www.office-nagasaki.com/ja/works/c0/22/1

京大立て看板強制撤去について

 京都大学が吉田キャンパスの周囲に並んだ立て看板を強制撤去した。景観条例に違反するとして京都市から指導をうけてのことのようだ。表現の自由VS景観という構図で議論されるが、僕は純粋に景観の問題だと捉える。

 果たして立て看板がなくなって景観が向上したのだろうか。ただ、淋しい通りになってしまっただけではないのだろうか。実際に現場で立て看板がある場合とない場合のどちらが景観上好ましいかを検証した上での決定なのだろうか。それとも、規制の条項とただ照らし合わせただけなのだろうか。景観をよくすることが大事なのか、それとも条文を守ることが重要なのか。容易に陥りやすい落とし穴があるように思える。本末転倒だけは避けなければならない。

 そもそも良い景観とは何だろうか。とても難しい繊細な問題だと思う。建物や塀などの人工物の景観を考える場合、まず2つの対策が思い浮かぶ。一つは、周囲と調和させること。もう一つは素材を吟味して形や色を整え美しくすること。調和とは?美しさとは?どちらも簡単な答えがあるわけではない。少なくとも条例の文言だけでそれを解決できるとは到底思われない。

 景観を考える上で前述の2点の他にもう一つ考えなければならないことがあると思う。広辞苑の景観の蘭を読むと「自然と人間界のことが入りまじっている現実のさま」とある。また京都市発行の冊子『京都の景観』の中に「京都の景観は、自然や時の流れとともに人の営みや暮らしによりかたちづくられてきました」という記載がある。そう、景観には我々人間が欠かせない。町並みに人々の活動や個性がにじみ出ると魅力的な景観が形成されると思う。露地裏の植木鉢、ベランダの布団干し、道路にはみ出た八百屋のダンボール箱、道路に張りだしたカフェテラス、どれもがとても魅力的。場合によってはルールからちょっとはみ出しているかもしれないが、それらを全て厳密に取り締まっては町の魅力や活力が半減する。ルールを少し緩くするという知恵を働かせることもできる。ただきれいな建物が整然と並んだよそよそしい町には何の魅力も感じない。「死んだ景観」と呼べるかもしれない。吉田キャンパスの立て看板は京大生の活動や個性が街ににじみ出たものだと思う。これこそが守るべき景観とは考えることができないのだろうか。

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同済大学界隈

建築分野が有名な同済大学周辺には建築書店が集まっていると聞き、上海出張最終日に同済大学エリアを散策することにした。地下鉄10号線に乗り換えてキャンパス南東の四平路駅で下りる。

まず地図アプリにも出てくる上海建標書店に行ってみた。専門書店なので客はほとんどおらず店内はひっそりとしている。親切な店員さんに色々教えてもらいながら2-30分ほど過ごし、一冊購入して店を後にした。粗品のノートと名刺をくれた。

その後キャンパス東側の路地を北へ向かって歩く。洗濯物を窓から道路に向かって干すおなじみの景色が続く。実はこういうの嫌いじゃない。ただきれいな建物が並んでいるより、生活がにじみ出るような街並みの方が美しいと思う。

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大学正門近くの同済大学駅に近づくと急にお店や人通りが増えてきた。キャンパス外にもデザインの凝った大学施設がちらほら。上海のプロジェクトでつきあったことのある同済大学建築設計研究院の建物も現れた。大学の先生が数人でやっている小さな設計事務所と思ったら大間違い。1000人を超える巨大組織事務所だ。日本でこの規模を超える設計事務所は日建設計とNTTファシリティーくらいだろう。

 昼食を済ませ、今度は貝図建築書店(同済連合広場店)というところに入る。本屋というより大量の建築書が飾られたカフェ。いかにも大学街にありそうなカッコイイ店だったが、あまりにも無造作に本が積まれており、何も探し出せずに疲れ果てて出てきた。

 地図アプリによると大学構内にも同じ貝図建築書店があるので、そっちへ向かってみる。大通りに面した正門を潜ると日曜日だというのにとても賑わっている。門のところに警備員はいるが、誰もが気軽に入ることができる。実際、僕も何の緊張もせずに自然に門を通ることができた。日本でも自由に出入りできる大学はあるが、何か入りにくい。この違いは何だろう。緑が溢れるキャンパス内で大勢の人々が思い思いに過ごす。まるで公園のよう。本当に街に開かれたキャンパスだ。日本でも「開かれた大学」という言葉はよく聞くが、こんな光景をあまり目にしたことがない。とても素晴らしいキャンパスだと思う。結局、建築校舎内にあるはずの貝図建築書店を見つけることはできなかったが、大学構内をゆっくり散歩することができた。いい時間を過ごせた。

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法界寺阿弥陀堂

門に近づくと、左奥に木々で半分隠れた檜皮葺屋根の趣のある建物がそっと現れる。宝形造に裳階がついた堂々とした姿が存在感を示す。吹き放たれた裳階の列柱が更に目に心地よい。

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法界寺は足利義政の妻日野富子で知られる日野氏の菩提寺。1051年日野資業(すけなり)が薬師堂を建立したのが始まり。開山は最澄でもとは天台宗だったが、現在は真言宗醍醐派の別格本山。親鸞聖人誕生の地としても知られる。1221年、承久の乱で堂宇の大半を失い、現在の阿弥陀堂は1226年頃、唱導僧・聖覚(しょうかく)により再建されたものとされる。平等院鳳凰堂の本尊と同じ仏師・定朝(じょうちょう)による阿弥陀像が焼失を免れたと伝わる。

堂内に入ると、大空間の中心に四天柱に囲まれた須弥壇に安置された大きな阿弥陀如来坐像の迫力に圧倒される。来迎壁がなく仏像を四周からゆっくり眺めることができる。お顔は幼子のようだが、光背と天蓋の彫り物のせいか荘厳な雰囲気をもつ。四天柱や長押上の小壁の内外には曼荼羅の諸尊や飛天の色褪せた絵で埋め尽くされている。当時の信仰の篤さや時の流れを感じさせる。四天柱と側柱をつなぐ虹梁などは一切なく、四周の壁から中心に向かって化粧垂木でつながる天井面が遮るものなく目に入る。求心性と上昇感を高めている。個人的には天井がもっと高い位置にあって、須弥壇空間がより独立するとバランスが良いように思う。

宝形プランといえば、重源(ちょうげん)の建てた浄土寺浄土堂が思い浮かぶ。浄土寺浄土堂はシンプルでモダンな外観に対して、内部空間は朱色の虹梁が四方に飛ぶ複雑な印象を与える。これに対して法界寺阿弥陀堂はちょうど逆。外部は檜皮葺屋根に裳階や吹き放し列柱を備えたいかにも古建築だが、内部空間はシンプルでモダンな印象。

阿弥陀堂、阿弥陀如来坐像ともに国宝だが、観光客もまばらで静かでひっそりとした寺院。

 

建築名:法界寺阿弥陀堂

竣工年:1226

所在地:京都市伏見区日野西大道町19

拝観料:500

参照文献:法界寺パンフレット、日本建築の形Ⅰ/斎藤裕、Yahooコトバンク

銀閣寺

 銀閣寺は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、正しくは東山慈照寺という。室町幕府八代将軍足利義政が、隠栖生活を過ごすために1482年から山荘東山殿の造営を始めた。1490年の義政の没後、禅寺に改められた。

 観音殿(銀閣)と東求堂の二棟のみ当時の姿を今に伝える。ひときわ印象に残る白砂の銀沙灘と向月台も江戸後期以降に今の形となった。月に一度数人の庭師で数時間かけて作り直しているそうだ。あいにく曇りだったが、天気の良い日には白川砂が太陽や月の明かりに反射してきらきら光る。月夜を想像してみる、なんと風流で幻想的な風景だろう。メインの観音殿は、一層は書院風、二層は唐様仏殿風の楼閣建築。東から池を手前に眺めると確かに美しいが、方丈側から眺めると不安定に感じる。一層の南東部が吹き放しとなっているせいだ。方丈も江戸中期の建造なので、こちら側から観音殿を眺めることは、あまり想定されていなかったのかもしれない。

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 東求堂は6.9m四方の入母屋造り檜皮葺の持仏堂。書院造の現存最古の遺構とされる。今回の特別拝観で初めて中に入る。内部は田の字型プランで4室から構成される。南にメインの仏間、その東側に長四畳、その北に四畳半の同仁斎、北西に六畳間。東求堂と言えば同仁斎が有名だが、仏間も実にいい。大きな4枚の床材も500年以上の時を経ている。天井は折上小組格天井で、白い天井と組子とのコントラストが鮮やかで繊細な美しさが際立つ。

 

床は畳が敷き詰められ、北側に付書院と違い棚を設えた同仁斎は、草庵茶室、四畳半間取りの始まりといわれている。床の間、違い棚、付書院の三点セットよりもこのように付書院と違い棚だけの方がすっきりして個人的には好みだ。付書院から北側採光なので均質に光が入り、障子を開けると庭の景色が一幅の掛け軸のようにも見える。

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 実は銀閣寺の一番好きなところは、庭の美しい苔。さすが、義政公が苔寺(西芳寺)に倣ったと言われるだけのことはある。

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建築名:銀閣寺

竣工年:1490

所在地:京都市左京区銀閣寺2

拝観料:500円、特別拝観別途1000

 

上海輝文生物竣工式

8月26日に上海輝文生物さんの新工場竣工式に参列してきました。駱社長の人柄のおかげで、地元の人はもちろん、日本からも多くの人がお祝いに駆けつけ、とても盛り上がりました。私は事務所と宿舎の内装設計をやらせて頂いています。「設計突出貢献賞」なんてものまで頂き式典で表彰されてちょっと気恥ずかしかったですが、喜んで頂きとてもうれしいです。

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ありがたいことに二期工事の建築設計もやらせて頂く予定です。式典会場に我々が提案した二期工事にCGも垂幕に印刷してありました。これから二期の設計頑張ります!

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圓徳院

圓徳院、京都高台寺の塔頭寺院の一つ。豊臣秀吉の妻北政所が余生を過ごした「ねね終焉の地」として知られる。1605年、伏見城の化粧御殿とその前庭を移築したことに始まる。

長屋門をくぐると「圓徳」の扁額の掛かった唐門が現れ、奥にアプローチ空間が続く。

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方丈へ上がると簡素で気持ちの良い南庭が広がる。書院へとつながる渡り廊下からはねねの小道を見下ろす。屋根と屋根の間の細い路地空間、中国江南地方の水郷の街でも見たようなとても好きな景色。

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渡り廊下を抜けると目当ての北庭と書院へとたどり着く。東と北が開け放たれたとても心地よい場所。残念ながら化粧御殿は消失したが、北庭は伏見城から移築した当時の原型を留めている。石組の名手賢庭作で小堀遠州が手を加えたとされる。白砂の奥に無数の石組が構成され、そこに新緑のきらきらとした楓の枝葉が覆いかぶさる。石の多さもそうだが、全体構成もあまり見たことがない庭園。どうやら池泉回遊式なのに水が無い枯山水になっているので不思議な感じがしたようだ。もともと伏見城では水が張られていたそうだ。良いなーと感じる庭園はどれも奥行感がある。この庭も然り。室内奥から眺めると特に美しい。
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建築名:圓徳院

竣工年:1605

所在地:京都市東山区高台寺下河原町530

拝観料:500

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浄土時浄土堂

目的地に近づくと、普通の町中の小高い丘の上に鎮座する浄土堂がさらっと現れる。山の中や周囲を樹木で覆われる境内を勝手にイメージしていたので不思議な景色に映った。

浄土寺浄土堂は鎌倉時代初期に重源(ちょうげん)上人により建てられた。宋代の技術を取り入れた大仏様(天竺様)と呼ばれる工法でつくられている。現存する大仏様建築としては、他に奈良東大寺の南大門があるのみ。

浄土堂は三間×三間の正方形平面をした、単層宝形屋根を持つ極めてシンプルな建物。屋根の反りもほとんどなく、軒先には鼻隠し板が付く。シンプルすぎて物足りない外観。貧相にさえ見える。特に遠くから眺めると今一つに感じる。日本人の美意識に合わず、普及しなかったのかもしれない。各立面に柱が4本しか現れず、しかもスパンが大きく飛んでいるということも外観の寂しさを助長する。実はこの大きなスパンが浄土寺浄土堂の最大の特徴と言える。一間が6m、これは一般的な寺院建築の約二倍。建物の中に入るとよりその特徴を感じることができる。

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大きい。こんなに広々として明るいお堂は経験したことがない。とても現代建築に近い空間だ。これだけの大空間に四天柱と呼ばれる柱が4本あるのみ。4本の柱はさすがに太い。この四天柱の存在感が内部空間を支配する。天井を張っていないので柱は屋根まで一直線に伸びる。四天柱の内側には、快慶作の高さ5.3mの阿弥陀三尊立像が安置されており、外側へは、三方へ三段、つまり一本の柱から九本もの虹梁(こうりょう)と呼ばれる梁が伸びる。力強いダイナミックな空間だ。しかも各材が朱色に塗られているため、より印象も強い。この朱色が内部空間の演出をより強烈にする。

西側一面は格子蔀戸となっており、夏至の頃の夕方に内部空間いっぱいに夕日が射し込む光景がよく知られている。夕日を背に浮かび上がる阿弥陀三尊様の来迎の姿は誰もが息を飲むという。残念ながら時期が合わず、そのお姿を拝むことはできなかった。しかし、床面に大きく射し込む格子模様の夕陽とその反射光が柱や梁や組物、そして阿弥陀三尊像を照らして美しい影とのコントラストをつくりだす光景を目にすることができた。

建築名:浄土寺浄土堂

竣工年:1197

所在地:兵庫県小野市浄谷町2094

拝観料:500

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